東浩紀さんがこんなこといってる

むろん、その変化は左翼インテリだけの問題ではない。昨年の論壇のヒーロー、赤木智弘氏が、まさにそのような論者の典型だ。おまえの立場を明らかにせよ、そのうえで弱者の代弁をしたうえでもっともらしい物語を語れ。これが、いま「論客」に寄せられる期待のすべてであり、赤木氏はまさにその類型として登場した。

しかし、そうなってくると、ぼくみたいな「インテリ」の「大学人」(まあそうなんだろう)は、「政治」的なことを話そうとすれば、もはや「現場」の「弱者」の代弁をやるくらいしかなくなることになる。そして、そんな振る舞いは、むろん赤木氏にはかなわないし、あまりやる気もない。というわけで、居場所はなくなる。

おまけに言えば、そういうとき「弱者」ってなんなのか、それは大いに疑問だ。ぼくの考えでは、赤木氏の議論の根幹には、「左翼は弱者を救済するというが、本当の弱者は弱者として定義すらされていないという左翼的な定義を拡張するならば、おれたちのように弱者だと言われてこなかった連中こそ本当の弱者なんだから、いますぐ女性でも外国人でも障害者でもない中年男性フリーターに注目しろ」的な論理のアクロバットがあり、おそらくはそれが一部の男性読者のルサンチマンに受けたのだと思う。いまの日本の「弱者」の定義は、それぐらい可塑性が高い(これは救うべき弱者がいないと言っているのではないし、またフリーターを無視しているのでもない。ぼくがここで標的にしているのは、赤木氏の議論構成である)。

まあ、ともかく、ぼくの思うに、ぼくたちはまず、「政治的であること」とはなんなのか、そこから根本的に考え直さねばならないのだ。ぼくは『思想地図』は「政治的」な雑誌にしたいと思うが、それは、この世界のよりよい資源配分について語りたいからであり、物語=イデオロギー闘争をやりたいからでも、また弱者代弁競争をやりたいからでもない。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

 東さんの批判点を僕なりに理解すると「赤木さんが自分の引いた枠組みの中で相手にどの位置(敵か味方か)につくのか?の選択を強要するのは暴力的だ*1」みたいな感じだと思います*2


 ぼくは赤木さんの本の「再分配」に関する部分にしかあまり興味がなくて、「議論構成」の問題はあまり重要視していなかった。基本的には最もだと思います。
 しかしより重要なのは赤木さんがこのようなスタイルで語った背景だと思います。ずいぶん昔の話で記憶も曖昧ですが、双風社主催のトークセッションンで上野千鶴子さんがまさに赤木さんと同じ語り方をする人であると北田暁大さんがおっしゃっていたように記憶しています。上野さんのこのようなスタイルは一度徹底的に批判されています*3が。ここらへんの源流に遡って批判するのが学問的姿勢なのではないでしょうか。



しかし「まさにそのような論者の典型だ。おまえの立場を明らかにせよ、そのうえで弱者の代弁をしたうえでもっともらしい物語を語れ。」
という部分はズレていると思います。基本的には赤木さんの本は富の再分配と後期近代について書いてある*4と思いますがいかがでしょう?他は語り方というか文体というか方法論です。もちろんそこが問題なのはわかっていますが。他に方法があったのかとも思います。


PS
まだ聞いてないがいつもお世話になっている文化系トークラジオLifeのスピンオフで小熊英二さんが赤木さんのことを「俗流大人論じゃん」と言ったらしいが*5。僕もずいぶん前から思ってたし、今も思ってるwww

しかし、でそれで?って話でしかない。

  • 場所違いだが、少し感想

東さんの語りは浅羽通明さんが最近おっしゃった以下の発言とかぶる。

「…政権交代なき二大政党制。今後の落としどころはこのあたりでしょうね。
 何か面白くないって?政治にドキドキを求める方はミャンマーにでもお行きなさい。面白さは自前で調達するのが成熟社会です。」

あと、東さんの話を読んでると外山恒一さんの絶叫に何が足りないかよくわかる。*6

*1:赤木さんは「暴力的ですが何か?そもそもこちとらの希望は戦争なんじゃ!ボケー!」とか言いそう。いわねーよ。

*2:違いますか?ちがってたらごめんなさい。

*3:上野輝将「ポスト構造主義歴史学−「従軍慰安婦」問題をめぐる上野千鶴子・吉見義明の論争を素材に」『日本史研究』509号.

*4:すくなくとも僕はそう読んだ

*5:http://www.tbsradio.jp/life/2008/01/part1_13.html

*6:もはや政府転覆で何とかなる問題じゃない!

赤木智弘は何を食べているのか

 先日、

 を図書館で借りてきた。赤木氏の住んでいる栃木県南部では、何がうまいかを知りたいからである。
 赤木氏の住んでいる地域では、「佐野ラーメン」が知られている。鶏がらをメインとしたあっさりした透明度の高いスープに、手打ちの麺が使われている。
 麺類では、ポテト入りの焼きそばも知られている。比較的安価で、400円も出せば大盛りが食べられる。
 芋料理では「いもフライ」というものがあり、小さく切ったジャガイモを串に刺して油で揚げるものである。
 忘れてはいけないのは「耳うどん」。耳に似た形にした練った小麦粉をうどんのようにして食べる郷土料理だ。多分、小学校の給食に出ただろう。
 内陸なので、魚介類が旨い、ということはないが、粉食中心の食文化が盛んなところである。佐野厄除け大師にでもお参りに行く傍ら、赤木氏が親しんだ郷土料理にでも舌鼓を打っては如何だろうか。それほど高いものはないので、旅費さえ何とかすれば食べられるものばかりである。暇なときにどうぞ。

きっこの正体を暴くと金を要求される!?

チキ×小谷野 問題について。

赤木がこう言ってるんだけど…


そして、私は荻上チキも、顔出しをしている以上は本名をもはや本名のみを隠し通す意味はないだろう。
 しかし、それを決断するのは荻上チキ本人の意思であって、小谷野がバラす必要はどこにもない。口は出してもいいけど、それで説得できないなら、小谷野自身が「こいつはダメだ」と思っていればいいだけの話だ。そして「荻上チキは顔出ししているくせに、本名を出せない匿名の卑怯者」とでもBlogに書いておけばいい。それが最低限のマナーというものだろう。
 もし今後、彼の本名が知れ渡った結果、仕事の上で支障をきたすようなことがあったら、小谷野は金銭的な保証を行なうべきだ。それができないなら、河野さんを松本サリン事件の犯人に仕立て上げ、彼の人生をめちゃくちゃにした露悪趣味のマスコミと同じだ。

ぉぃ〜 それは言い過ぎだよ。

きっこや河上イチローイザヤ・ベンダサンパオロ・マッツァリーノの正体が誰かなのかを暴くと、その人は金銭を要求されることになっちゃうよ。

んなワケないでしょ。

チキは本を出すくらいですから、もはや公人なワケですよ。公人であれば背後関係にconflict of interestが発生するような場合などはプライバシーが制限されちゃうコトもある。ジャーナリストコースに通っている赤木ならご存じでしょう。

争点となるべきは、

・本名が公開されるべき理由が妥当なものかどうか

a.妥当であれば、小谷野が本名を公開する理由もあるし、権利もある。本来はチキ自身が本名を公開すべき。

b.妥当じゃなければ、小谷野が本名を公開する理由は無くなる。但し、本名を公開されたとしても、チキはわざわざ自分から顔出ししている以上、直接的な支障がでることが立証されない範囲については、自己責任となる。

まぁ、なんていうか…介入するつもりないので省くけど、たぶん正解はbだと思うんですわ(笑) 仮にそうだとしておく。

実際には本名を公開されても「妥当じゃなければ」「conflict of interest的な問題はないので」「直接的な支障」は発生しません。仮に被害が出たとしたら、それは自己責任の枠内でしょう。当然、小谷野が払うべき理由は無い。

もしボクがきっこの正体をここに書いて、がしかし、内容はきっこサイトの信頼性を左右するものではなかったとして、きっこから本名を書くな!と言われても、サイトの人気は継続するだろうし被害も出ませんから、金を払う必要もありません。

あとは、自己責任の枠外のケースですが…いまいち想定しづらい。唯一あるとすれば本名公開それ自体の是非というやつですかね。しかしチキは公人ですから(自分から顔出ししてなかったとしても)ある程度、制限されても仕方ないです。私人の「河野さん」とは話が全然違うでしょ。

小谷野サイトに本名の公開を「やめてほしいという懇願メールが来た。」と書いてあるんだけど、「懇願」なんて言われると、読んでる人の中には「え?そんなに公開されると困るような事情があるの?」って邪推する人も出てくるんじゃないかなぁ。そう思われないように「勝手に公開すれば良いんじゃないですか、困ることないですから、ご自由に」と言っておくのが得策だったでしょうに…。うーむ、である。

あと、匿名の是非云々は価値観の問題なので、どうでもいい。

何にせよ、小谷野が払うべき理由は限りなくゼロに等しい。同時に、本名を公開しなければならない理由もゼロに等しい。ってワケですな。

(ボクが岡留でbケースだったらイニシャルにするだろうなぁ〜。公的な理由を発見し次第、本名に転化させるってとこか。)

文は武より強し/(自分自身を見殺しにする国)

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

 エントリーが一時停止したままなので、消化不良のまま更新します。少し旧聞をネタにして。 
 高橋源一郎週刊朝日で、赤木さんを取り上げていましたよね。
そこで、僕は高橋さんの言葉を引用しながらこんな記事をアップをしていたわけです。
 週刊朝日(12月7日号)で高橋源一郎赤木智弘の『若者を見殺しにする国』、『「肉体」の切実さに基づく「フリーターの論理」』(p110)で、18歳から31歳まで、過酷な肉体労働者として働いていた(まさに70年代でしょう)高橋は、赤木論文(「『丸山真男』をひっぱたきたいーー三十一歳、フリーター。希望は、戦争」)を大学の授業でテキストとして使ったとのこと。学生達の感想で、激しい嫌悪感を伴う拒否が六割、ある程度理解は出来るが論旨が肯定出来ないが三割で、残りの一割はバラバラ、その中のひとりが「ぼくは怖かった。なにも考えられなかった。ただ怖かった。」と書いていたと言う。

赤木さんのこの論文に対して、様々な「正しい批判」が寄せられた。
だが、どんな「正しい批判」も、赤木さんの論文を打ち倒すことはできなかった。それは、なぜだろう。
赤木さんの論文を嫌悪した学生たちは、共通して、アルバイトから帰宅して酒を飲みネットサーフィンをしテレビを見る、という繰り返しが続く赤木さんの生活に反応した。そして、彼らは一様に「努力していない」とか「頑張ればいいのに」とか「資格をとる勉強をするべきだ」とか言うのである。

 高橋は自身の経験に基づき「過酷な労働の後には酒を飲む他気力は残らないものなんだよ」と学生達に言うべきなんだろうかと、自問する。

赤木さんの論文は論理の「正しさ」ではなく、赤木さんの「肉体」の切実さに基づいている。だから、まだ、己の「肉体」を得ていない学生たちには理解できない。
いや「恐ろしい」と書いた学生がいた。彼は、そこに、理解できないものがあることがわかったのだ。そして、おそらくは、いつか自分の「肉体」もまた、そのようなものに直面せざるをえないのではないかと。

 かような「肉体」の切実さに基づくタイトな時代が「不幸せの共有」と言った人為的なものではなくて、非正規、正規を問わずこの国に押し寄せる予感がする。単に「若者を見殺しにする」、「老人を見殺しにする」ではなく、どこかで、「自分自身を見殺しにしないと生きられない国」になってゆく予感。ひとりの学生が言った「怖かった」を僕はそのように受信しました。
 かって高橋自身が戦ったのは、そんな「自分自身を見殺しにしないと生きられない国」ではなく、「自分自身を見殺しにしなくとも生きられる国」ではなかったか?そのような希望を信じられる一歩でないと、生き辛さは加速する。
 こんな風に僕は書いたわけですが、保坂和志のWEB草思で更新された 「世界はこんな風にも眺められる」から『第20回 “文”の持つ不羈の精神』を読んで、この高橋さんの記事を思い出しました。赤木さんのことと僕の中で、リンクしてしまって、今、白川静丸山真男の違いについて考てしまう。
このエッセイで取り上げられた白川静先生のエピソードが高橋和巳の「わが解体」でS先生として登場したのは1969年なんですね。(http://www.st.rim.or.jp/~success/shirakawa_ye.html
 そして、四十年近く経って、ある若者が貧困の主役として登場して、「丸山真男をひっぱたきたい」と言う。かって丸山真男の研究室を全共闘が封鎖した時、丸山真男がこんな暴挙はナチスもやらなかったと言ったのは有名なエピソードですが、その全共闘世代が高橋源一郎さんでしょう。同じ高橋ですが、高橋和巳が見る白川静とは、60年代、70年代の差異を超えた大きな断層があるような気がする。そして、僕より一回り若い保坂さんはエッセイでこんなことを書いているわけです。

しかし貧困となると当事者が書きうる。そのとき、実社会の価値に照らしてリアリティがあるかないかという尺度でばかり読む読み方によって、貧困を題材にして貧困という視点から社会を糾弾しようとする態度に“正しさ”という錯覚が生まれる危険がある。
 これは最悪の事態だ。“文”は社会の支配的価値観から見たときに簡単に“正しい”のではいけないのだ。私はそれによる社会状況の悪化を心配しているのではない。そんなことは二の次だ。“正しさ”という錯覚に就いてしまったときの“文”、つまり小説の状況に危機感を持っているのだ。“文”には“文”として不羈の精神でまっとうしなければならないことがある。

 保坂和志言葉は強い。
 このブログに直截にヒットしないで、クセ球かもしれないが、とても深いところで批評性を持っていると思うのでエントリーしました。
 さて、ネットの言葉は武より強いものでしょうか。強いもので、ありたいものです。秦の始皇帝であろうとも、怖がることはないのです。

「はじめまして」さんへのレス


12月15日のエントリーでコメントをお書きになった「はじめまして」さんへのレスが長くなったので、エントリーとしてアップします。


コメントを書き込むのはご自由です。しかし、せっかくお書きになるのでしたら、このエントリーだけでなく、せめてこのブログの冒頭から流し読みをしていただくのがよいと思います。

そもそもの目的は
この論文に共感する人が増えるところから
国民的議論に発展していく過程で世論となり
政策に影響を及ぼし、状況が改善されるべきではないかと。

まったく、おっしゃるとおりです。では、赤木さんの議論が「世論」となり、「政策に影響を及ぼ」すためには、どうすればいいのでしょうか?
そうするためには、「戦略」が必要となります。その戦略のひとつが、論文を拡張したかたちで「書籍化=活字化」し、戦略を進めるためのツールとして活用するということです。

こういうオピニョンリーダーになり得る貴重な人物を
単なる物書きに堕してしまうのは
それこそ企業側となる出版社の商売策略にハマることになり
論文の主張と矛盾することになると思うのですが…

「出版社の商売策略」うんぬんについては、双風舎のブログでも読んでいただき、「はじめまして」さんが毎日食べている食べ物の生産者にも、グローバル企業から零細農家まで存在するということをご理解いただければと思います。


そして、「オピニオンリーダーになり得る貴重な人物を単なる物書きに堕してしまう」というご意見は、「はじめまして」さんの願望を赤木さんに投影しただけの意見であり、ある意味では赤木さんに役割を押しつけているともいえませんか。
赤木さん自身は、みずからが置かれた環境をどうにか脱出することが第一義であり、いまよりマシな生活を送るための手段として、ライター業を志しているわけです。

どうせやるなら、雑誌・書籍に書くのではなく
ネット上でやってもらいたいですね。

ネット上でいくら何を書いても、なかなかお金にはなりません。ライターとしての実績も、認められません。
また、雑誌に記事を書いて、すこしばかり論争が起こったからといって、その書き手が忘れられずに世の中に影響力をおよぼすことなど、ほとんどありません。雑誌は、つぎつぎに新しいものが生まれ、古いものは消えていきます。


ようするに、世に残そうと思ったり、人びとに忘れられないようにするためには、なんらかのかたちで「刻印」する必要があるんです。


私ができることは、彼の言説を本として刻印することでした。本にすれば、図書館に置かれたり、読者が購入して書棚に置いたりすることができます。また、新聞・雑誌・テレビなどのマスコミに対するアピールを考えても、雑誌の記事やネット上の文章より本というかたちにしたほうが、有効だという現実があります。
実際、こうした戦略が有効に働いていることは、いまさらいうまでもありません。


このたび本を出したのは、ライターとして業界や世の中に認知されるためのツールとして、この本を赤木さんが使えたらいいなあという思いが、私にはありました。
しかしながら、赤木さんの本を出して売れるかどうかは、出してみなければわかりません。一般的には無名ですし、本のためにどんな文章を書いてもらえるのかも、当初はわかりませんでした。


有名であったり、売れそうな著者であれば、私ごときが声をかける前に、もっと大きな出版社の人が赤木さんに声をかけていたことでしょう。つまり、赤木さんの本については、出しても売れるかどうかわからない、というリスクがありました。このリスクは、出版社側にある程度の覚悟がないとクリヤーできないような、大きなリスクだといえます。


こうしたリスクがあるにもかかわらず、私がなぜ赤木さんの本を出したのか。それは、このブログや双風舎のブログにさんざん書きましたので、繰り返しません。赤木さんが「企業側となる出版社の商売策略にハマ」っているのかどうかは、それを読み直してから判断してみてください。


赤木さんは、貧困から脱出するための契機として、ライター業を目指しています。まずは自分から、です。


あと、すべての双風舎の本は、刊行からしばらくすると、アマゾンとGoogleで全文公開します。そうなれば、ネットカフェでも『若者を見殺しにする国』を読むことはできます。さらに、このブログに関わる方々やミクシーの赤木コミュの方々が、熱心に図書館への新刊リクエストをしてくれいることから、すこしずつ図書館にて無料で読めるようになってきています。


最後に。思ったことを書き込むのは自由ですが、ここは2ちゃんじゃないんですから、ただただクレームを書いたり自分の意見をそのまま書き込むのではなく、とりあえずネット上で読めるような関連文章を読み込んだうえで書き込んだほうが、意味のある議論につながると思います。

赤木智弘を札束でひっぱたけ

 最近エントリーがないので、ふと思ったことを。
 赤木氏の著作が出たことで、本人がインタビューを受けたり、記事を書くようになっている。それ自体は、めでたいことだ。
 だが、少し懸念していることがある。基本的に、取材費が発生する仕事をしていないのだ。せいぜい、書籍費や資料代程度で、これまでの「蓄積」を生かすような仕事しかしていない。
 赤木論文と、『若者を見殺しにする国』の範疇を越える仕事は、ゲーム関係以外していないように思えるし、本格的に取材をして文章を書いた、というのは見たことがない。これは私が知らないだけかもしれないが。
 これは、赤木氏自体を批判すべきということではない。むしろ、赤木氏のこれまでの仕事を見て、過去の仕事の枠組みを超えうるような仕事を発注しない編集者に問題がある。インタビューや、座談会でこれまでの主張を反芻する仕事では、過去の縮小再生産でしかない。
 赤木氏も、大して金はないと思う。本格的に取材して何か書こうにも、金銭的に厳しいだろう。この状況は、私も陥っている。
 いいものを書くには、丹念に取材したり、資料を大量に集めたりと、手間暇かかる。出版業界が厳しいことは分かるが、書き手がワーキングプア状態で、その結果出版されるものが面白くないと、業界自体が衰退するだろう。
 猪瀬直樹氏は、『ミカドの肖像』を書く際に、「相当の準備期間と取材費がかかりますよ」と、週刊ポストの編集長に述べたという。編集長は、連載が始まっていない時点での支出を認めた。また、週刊文春では、編集長が猪瀬氏の前に札束をポンとおいて「すぐに出張に行ってくれないか」と言った。
http://www.inose.gr.jp/profle/bonjin/1983_2bonjin.html
 この辺の話は、今の出版界に欠けているところである。
 今の赤木氏に必要なことは、赤木論文から一歩進んで、新しい作品づくりをすることである。
 そのためには、編集者には赤木氏のところに取材費になるような札束を持っていって、その札束で顔をひっぱたいて渡してほしい。しっかりとした取材費を先に出せば、いい取材は出来るし、新しい境地も開ける。
 現実のところ、若いライターは少ない。特に社会問題を書くライターは、20代では日本に10人しかおらず(私の推計)、30代でも若手の部類に入ると考えられる。なにせ、同世代の書き手に出会うことが私にはない。若いライターを札束でひっぱたいて仕事させる出版社が少ないからだろう。
 赤木氏が成長するために、誰かが札束でひっぱたくことが必要である。


 無論、私を札束でひっぱたいてくれるのも、歓迎する(笑)。