文は武より強し/(自分自身を見殺しにする国)
- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2007/10/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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高橋源一郎が週刊朝日で、赤木さんを取り上げていましたよね。
そこで、僕は高橋さんの言葉を引用しながらこんな記事をアップをしていたわけです。
週刊朝日(12月7日号)で高橋源一郎が赤木智弘の『若者を見殺しにする国』、『「肉体」の切実さに基づく「フリーターの論理」』(p110)で、18歳から31歳まで、過酷な肉体労働者として働いていた(まさに70年代でしょう)高橋は、赤木論文(「『丸山真男』をひっぱたきたいーー三十一歳、フリーター。希望は、戦争」)を大学の授業でテキストとして使ったとのこと。学生達の感想で、激しい嫌悪感を伴う拒否が六割、ある程度理解は出来るが論旨が肯定出来ないが三割で、残りの一割はバラバラ、その中のひとりが「ぼくは怖かった。なにも考えられなかった。ただ怖かった。」と書いていたと言う。
赤木さんのこの論文に対して、様々な「正しい批判」が寄せられた。
だが、どんな「正しい批判」も、赤木さんの論文を打ち倒すことはできなかった。それは、なぜだろう。
赤木さんの論文を嫌悪した学生たちは、共通して、アルバイトから帰宅して酒を飲みネットサーフィンをしテレビを見る、という繰り返しが続く赤木さんの生活に反応した。そして、彼らは一様に「努力していない」とか「頑張ればいいのに」とか「資格をとる勉強をするべきだ」とか言うのである。
高橋は自身の経験に基づき「過酷な労働の後には酒を飲む他気力は残らないものなんだよ」と学生達に言うべきなんだろうかと、自問する。
赤木さんの論文は論理の「正しさ」ではなく、赤木さんの「肉体」の切実さに基づいている。だから、まだ、己の「肉体」を得ていない学生たちには理解できない。
いや「恐ろしい」と書いた学生がいた。彼は、そこに、理解できないものがあることがわかったのだ。そして、おそらくは、いつか自分の「肉体」もまた、そのようなものに直面せざるをえないのではないかと。
かような「肉体」の切実さに基づくタイトな時代が「不幸せの共有」と言った人為的なものではなくて、非正規、正規を問わずこの国に押し寄せる予感がする。単に「若者を見殺しにする」、「老人を見殺しにする」ではなく、どこかで、「自分自身を見殺しにしないと生きられない国」になってゆく予感。ひとりの学生が言った「怖かった」を僕はそのように受信しました。
かって高橋自身が戦ったのは、そんな「自分自身を見殺しにしないと生きられない国」ではなく、「自分自身を見殺しにしなくとも生きられる国」ではなかったか?そのような希望を信じられる一歩でないと、生き辛さは加速する。
こんな風に僕は書いたわけですが、保坂和志のWEB草思で更新された 「世界はこんな風にも眺められる」から『第20回 “文”の持つ不羈の精神』を読んで、この高橋さんの記事を思い出しました。赤木さんのことと僕の中で、リンクしてしまって、今、白川静と丸山真男の違いについて考てしまう。
このエッセイで取り上げられた白川静先生のエピソードが高橋和巳の「わが解体」でS先生として登場したのは1969年なんですね。(http://www.st.rim.or.jp/~success/shirakawa_ye.html)
そして、四十年近く経って、ある若者が貧困の主役として登場して、「丸山真男をひっぱたきたい」と言う。かって丸山真男の研究室を全共闘が封鎖した時、丸山真男がこんな暴挙はナチスもやらなかったと言ったのは有名なエピソードですが、その全共闘世代が高橋源一郎さんでしょう。同じ高橋ですが、高橋和巳が見る白川静とは、60年代、70年代の差異を超えた大きな断層があるような気がする。そして、僕より一回り若い保坂さんはエッセイでこんなことを書いているわけです。
しかし貧困となると当事者が書きうる。そのとき、実社会の価値に照らしてリアリティがあるかないかという尺度でばかり読む読み方によって、貧困を題材にして貧困という視点から社会を糾弾しようとする態度に“正しさ”という錯覚が生まれる危険がある。
これは最悪の事態だ。“文”は社会の支配的価値観から見たときに簡単に“正しい”のではいけないのだ。私はそれによる社会状況の悪化を心配しているのではない。そんなことは二の次だ。“正しさ”という錯覚に就いてしまったときの“文”、つまり小説の状況に危機感を持っているのだ。“文”には“文”として不羈の精神でまっとうしなければならないことがある。
保坂和志の言葉は強い。
このブログに直截にヒットしないで、クセ球かもしれないが、とても深いところで批評性を持っていると思うのでエントリーしました。
さて、ネットの言葉は武より強いものでしょうか。強いもので、ありたいものです。秦の始皇帝であろうとも、怖がることはないのです。