知的情報メールマガジン「αシノドス」読みたい!*1

中島岳志VS芹沢一也対談

今話題のシノドス*1にこんな対談が、赤木さんに対する言及も多いので是非読んで欲しいのですが、個人的に気になったのが以下の一節。*2

芹沢
宮台さんもおっしゃるように、日本の場合右も左も動員主義なんですよね。国体か共同体か、その差しかない原理主義なんです。でも福沢は一貫してそうしたスタンスを批判した。状況で判断していくしかないと主張していた。「議論の本位」というやつです。そういう態度は日本には全然根付かなかったですよね。戦後、丸山経由でそれを受け継いだのは宮台さんだけかもしれない。

明治14年の政変が起こらずに、福沢の構想が入っていたらどうなっていたんでしょうね。井上馨は福沢に、議会を開いて政権を渡してもいいとまでいっていた。だけどその後は、伊藤がドイツの立憲君主制を持ち込んで明治憲法体制ができて、日露戦争で条約は改正されたのはいいけれども、日露戦争以降は自分探しの人たちばかりになりましたね。それが政治にいくのだから、右も左もズブズブです。

中島
司馬遼太郎坂の上の雲』に象徴されるように、雲の上に行けば何かあると思っていたら、日露戦争の際に一番上まで上ったら雲しかなくて、若者達は天下国家のために生きるということが分からなくなった。それより宗教的生活がしたいという発想になり、経済学や政治学よりも文学や芸術に興味を持ち、モラトリアム的な生活をしはじめる。まさにそういう状態に、現代もまた近づいているような気がしますね。


こうゆうこと言うかね〜。いや、そうゆう側面があったことは認めますよ。ですけどね〜、ある側面を切り取って一般化するのは「歴史学者」のすることじゃないですよ。そこで登場してもらいましょう我等が赤木智弘たん*3

赤木智弘 2008/02/16 18:41
私はかつての状況と現在がぜんぜん類似しているとは思わないですけどね。
だいたい、そこで論じられているのは、当時に大学に行けるようなエリートであって、「下宿屋でごろごろ」というのは、どん詰まりのフリーターではなく、ただの裕福なニートです。

そして、最たる違いは、「彼らに何十倍、何百倍する多数の青年」の存在です。すなわち当時は貧困こそマジョリティーだったわけで、社会そのものが貧困であっても生活できる状況だった。しかし今は貧困者はマイノリティーに過ぎず、貧困では生活できないのです。

このある種の感の良さが私が赤木さんのそばにいる理由である。
日露戦後のもう一つの側面がそれこそ刑法犯の多発により新刑法が模索・施行された時期でもあるわけでして*4

そして忘れてはならないのが日露戦後は政治運動の時代であったと言うことです。講和反対運動にはじまり、憲政擁護運動=大正政変、廃税運動、普選運動。それを大正デモクラシーと呼ぶのであってその担い手は少なからず若者が担ったわけである。専門書が手元にないので困っていたが、こんな史料があった*5アジ歴マンセー

大正二年1月19日正午より丁末倶楽部有志者の主催となり、神田青年会館に於て青年大会を開く。来り、会する者約七百名にして青年学生其の大部分を含む

ま、この運動が桂太郎内閣をぶっ飛ばして、軍拡の抑制の芽をついでしまったというのが近年の通説ですが*6、当時の若者は政治に無関心ではなかった。そもそも普通選挙権の獲得や政党政治の確立といったわかりやすい雲があったからね。そのわかりやすい雲が通用しなくなったのが昭和なのである。

こんな風に安易に言ってしまうのは宮台真司さんがその昔、「歴史学者が言う通り、日露戦争以降の日本はダメな方向に向かいます。」*7と言ったような感覚と酷似している*8
別に宮台さんが悪いわけじゃなくて、ここ40年の近代史研究の議論が部外者にはほぼつたわっていない。

なんらかの形で世間の皆様に還元していきたいな*9〜と考えております。その一環が赤木ブログへの参加であり、文化系ークラジオLife池袋でのブックレビュー*10だったりしたわけでして、さてどうする?

その際の三つの柱として考えているのが「憲法を守る立憲主義」、「税制と歳出(軍事・公共事業をめぐる財政問題」、そして「外交」だと考えております。こうご期待。

というか・・・あまり赤木さんの話しなかった・・・・

*1:http://kazuyaserizawa.com/synodos/mm/index.html

*2:http://kazuyaserizawa.com/synodos/mm/discussions/00/33.htmlhttp://kazuyaserizawa.com/synodos/mm/discussions/00/34.html

*3:http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20080216

*4:“法”から解放される権力―犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー

*5:「大正二年騒擾事件記録・前編」http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090417311095769、20画像

*6:桂太郎 予が生命は政治である (ミネルヴァ日本評伝選) [ 小林道彦 ]熱狂って怖いねw

*7:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=408

*8:しつこいようだけど何度でも言及します。そんなアホなこと言う歴史学者いたらつれて来いや。引っぱたいてやるw

*9:もちろんほぼ100パー他人のフンドシですよ。でもだれもやらないんだもん。ラジオパーソナリティー鈴木謙介ことチャーリーが「『深めること』と『広めること』を平行してやっていきたい」ってたけど、僕は広めることを・・・

*10:http://lifegakuseibu.michikusa.jp/m04.html、どうでもいいけど、2号出さないの?

「希望は戦争!!!」と絶叫した瞬間に無敵モード

http://www.journalism.jp/t-akagi/2008/03/mac_book_air.html


戦争なんてものは政策の失敗の帰結として生じるものだから、多少見当違いなことを言っても許される。いや戦争を誘導する力になりうる。


クーデター!!!とか政府転覆とか言っている人とは違うのだ*1

いやいや気付かなんだ・・・ま、気づかなくてよかったかも。

*1:

それでも、希望は、中小企業…なんだってば!

伝統的工芸品展WAZA2008というイベントに行ってきました。

ぼくは繰り返し、就職に難渋している人びとでも中小企業なら職を得られるという主張に与してきましたが、どうも旗色が悪いようです。いろいろと反論があることは折り込み済みだったのですが、そうではなく、単純にぼくの主張そのものが信憑性に欠ける、ということらしい。
また、赤木さん自身からも中小企業に希望を見出すことには疑念が出されている。ぼくはそことも対峙しなければならず、それには自説の説得力を高める必要があります。その点からみると、今までは「○○さんがそう書いてた」というレベルで話を進めていて、裏を取る作業が十分だったとは言い難いです。やはり現場に身を置く人たちに直接話を聞いてみたいし、そこで労働力が求められている事が確認できれば、自信を持って自説の主張ができます。
伝統工芸を担うのは多くが中小零細企業だったり、会社組織ですらない家内工業だったりします。取材対象としてはピッタリですし、ぼく自身が最近そういった物に興味を持ってるんですよね。

というわけで、着きました池袋東武百貨店。何十ものブースに、全国から伝統工芸の製作品と、それを作る職人さんや説明員さんなどが集まってきています。どこから回るか迷いますが、とりあえず目に付いたところにいる説明員さんに訊いてみました。

「…すみません、伝統的工芸に興味があるんですが、その担い手は募集していますか?」
「…あー、ちょっと分からないですねえ」
「例えば、ぼくくらいの年代の人間が、弟子入りを希望してやってきたとしたら…」
「さあ…どうですかねえ…」


反応が鈍い。職人さんじゃないからかな? 別のところで訊いてみましょう。


「(商品を見ながら)うわー、綺麗ですねー」
「ありがとうございます」
「こういうものに興味があるんですが、弟子入りとかって可能ですか?」
「…うーん、まあ、そうねえ…」


返答が芳しくありません。でもめげずに、他のところに行ってみます。


「伝統的工芸に興味がありまして…」
「はい」
「たとえば、弟子入りするとすれば…」
「…」


やっぱり反応が…。思い切って訊いてみましょう。


「…弟子入り志願の人って、あまりいないんですか?」
「いないねー、あまりお金にならないからねー」


お金にならない!


自分が見落としていた点を、ズバリ指摘されてしまいました。赤木さんは「とにかく金をくれ!」という主張をされているので、これでは説得することが不可能。
つまり、当初の取材意図が突き崩されたってことです。思惑見事に外れる。

でも。

じゃあ「この仕事はお金にならない」とキッパリ言った職人さんは、なんでこの仕事を続けてるの? という疑問が沸いてくるわけ。でもおそらく自信をもってこうお答えになるでしょう。

「好きだから」
「この仕事に誇りを持っているから」

赤木さんの持論として、年長世代を十把ひとからげに既得権者と定義して批判するというものがあります。でももし、こういった職人さんまでもが批判の対象となるのだったら、


誤爆だろ。


と思います。「お金じゃない」というところでそもそもやってきた人を敵に回すのは、何か間違っていると思う。

ともかく。ぶっちゃけたお話をしてくれた職人さんにはお礼を言って立ち去らねば。と思ったそのとき。


「ま、興味あったら来て見てよ」


…脈あり?お金にならない!

自分が見落としていた点を、ズバリ指摘されてしまいました。赤木さんは「とにかく金をくれ!」という主張をされているので、これでは説得することが不可能。
つまり、当初の取材意図が突き崩されたってことです。思惑見事に外れる。

でも。

じゃあ「この仕事はお金にならない」とキッパリ言った職人さんは、なんでこの仕事を続けてるの? という疑問が沸いてくるわけ。でもおそらく自信をもってこうお答えになるでしょう。

「好きだから」
「この仕事に誇りを持っているから」

赤木さんの持論として、年長世代を十把ひとからげに既得権者と定義して批判するというものがあります。でももし、こういった職人さんまでもが批判の対象となるのだったら、

誤爆だろ。

と思います。「お金じゃない」というところでそもそもやってきた人を敵に回すのは、何か間違っていると思う。

ともかく。ぶっちゃけたお話をしてくれた職人さんにはお礼を言って立ち去らねば。と思ったそのとき。

>>
「ま、興味あったら来て見てよ」 <<

…脈あり?

よく考えたら、ぼくの相手は赤木さんだけじゃない。「お金じゃない、打ち込める仕事が欲しいんだ」という考えの人もいるだろうし、そういった人たちにお金云々の話はともかく、「貴方を受け入れてくれる仕事があるぞ!」と呼びかけることはできる。むしろこっちのほうが有効な成果かもしれない、と思いました*1

*1:ま、だらしない格好で行ったので、向こうも冷やかしだと思ったのはあるでしょう。ビシッと背広着て直接的に「働かせてください!」とやればもっと良かったかも。

明日のイベント


「不正義の平和よりも希望の戦争を」

論座 』誌上で「希望は戦争」と宣言して巨大な反響を巻き起こした赤木智弘と、「正義の戦争」を唱え続けるファシスト佐藤悟志が、不正と格差に満ちた現在の平和を罵り倒し、市民運動業界の禁句「戦争」を正当化する!
【司会】佐藤悟志(『青狼会』総統/『売春の自由党』事務局長)
【Guest】赤木智弘(『若者を見殺しにする国』著者)

Open13:00/Start13:30
¥1000(飲食代別)


僕も行く予定。

こ、国民国家が溶けている!


深夜のしまねこブログから

最近はあんまり報道されなくなってきたガソリン高騰問題だけど、そのなかに「暫定税率を切り下げろ」という話がある。そしてその「切り下げの猶予」として「無駄な道路」があげられることがある。
 でも「無駄な道路」って、本当にあるのか?

 よく、「こんな田舎に、毎日10数人しか利用しない、こんな立派な道路があって、建設費用がいくらいくらで、これは無駄な道路だ!」なんていう人がいるけれども、その「毎日使う10数人」にとっては、必要な道路なんだろ。
 じゃあ、これが無駄だというなら、その10数人には道は必要ない、もしくは路肩が崩れそうな道路を恐々走っていれば、いいということなのか。
 国は「平等」を守らなければならないのだから、都会のど真ん中に住んでいる人にも、田舎の隅っこに住んでいる人にも、同じサービスを与えるのが当たり前なのだ。ならば道路ができるのも、当たり前ではないか。
 それでも、無駄な道路をつくるなというなら、同時に田舎の隅っこに住んでいる人に対して、「そういうところに住むと、国はそこまでサービスを延長しなければならなくてお金がかかるから、そんなところに住むな!」という必要がある。
 逆に「そういうところを選んで住んでいるのだから、国はそうしたわがままな人たちに対して、サービスを提供する必要はない」という考え方もある。いわゆる「無駄な道路論」というのは突き詰めればここに達するはずなのだが、たいてい無駄な道路を糾弾する人たちは、無駄な道路を使わないと生活できない人を糾弾しない。エエカッコしいなんだろうな。

 「居住地の自由」と「無駄な道路をなくせ」の論理は相いれない。無駄な道路を受け入れて居住地の自由を守るのか、居住地の自由を制限しても無駄な道路をなくすのか。
 箱物行政批判は一見簡単に見えるけど、実は全然簡単じゃない。

*1

この赤木さんの問題提起の根本には「国家は平等な国民によって構成されたものである」という国民国家の原則に基づいたものである。この原則によって自由党星亨、政友会原敬我田引鉄と言われる利益誘導が行われてきた。田中角栄はその完成者と言えるだろう。小熊英二さんの『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』には「地方と都市の圧倒的な格差がナショナリズムによって解決されるべきである」といった話が書いてあった*2

しかしその原則がゆがんでいる。いわゆるグローバリゼーションってやつだ。1月22日の『思想地図』のシンポジュームで未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)の著者ある白井聡さんがこんなことを言っている*3

現在のグローバル化の進展により国民統合というものがフイックションとしても成り立ちえなくなっている。ポストフォーディズムケインズ主義によって資本と労使の相互に利益が行くようになった。それが20世紀後半のナショナリズムを支えていた。しかし現代は各階級が別々に分断化され、「一枚岩的な国民」が想像できない状況になっている。「国民はいないのに国家は残る」という状態、「国民なきナショナリズム」という状況になる。そして分断化され人々の中で唯一残された共通関心がセキュリティーなのである。

最後に残された共通関心がセキュリティーなのは象徴的だ。赤木さんが目覚めたきっかけもスクールバスで自分が犯罪者予備軍扱いされていることへの反発だ。まさにセキュリティーである。

白井さんは仲正昌樹さんとの対談で「この格差社会に国家はなにをしているんだ!?と思っている私は右翼じゃないか?」みたいなことおっしゃっていた*4が、まさにその通りだと思う。想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)というインテリ連中ならほぼ読んでる本があるんだけど、読んで「やばくね?」って思ったの。「国民国家が想像の共同体であるならば、国民間で富の再分配する筋合いもないし、地方も切り捨てほうだいじゃん」って。ま、『想像の共同体』が出てだいぶたって「新しい古典」なんて呼ばれてるけど、なにがあろうとグローバル化は進展しただろうけど、それを肯定した背景にはこのような思潮があったと思う。

いやだからどうする?

と聞かれても「私には建設的な提案なんかひとつも無いっ!」*5
*6

*1:http://www.journalism.jp/t-akagi/2008/02/post_262.html

*2:記憶は曖昧

*3:もちろん、僕の脳内を通過しているので気になる方はニコ動で確認しましょう。http://www.nicovideo.jp/watch/sm2136294

*4:

情況 2007年 10月号 [雑誌]

情況 2007年 10月号 [雑誌]

*5:外山恒一

*6:そもそも私は後ろ向きな歴史研究者であってw社会学者みたいに積極的な(うさんくさい?)提案はしないんですよ。ま、まじめな話をすると意識はしてますよ。対象の選択で、問題意識で、分析視覚で。でも表に出すもんじゃないし。通じないしね。回りまわって何か起こるかもしれないし、起きないかもしれない。そんなもんです。学問なんて

石川啄木から赤木智弘

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 03月号 [雑誌]
 ちょいと、こちらが、閉塞状況なので、僕のブログにアップしたエントリーをそのまんま掲載いたします。悪しからず。高橋さん、東さん、田中さんが、『新潮』で面白い指摘をしていますね。
 現在の日本の文学状況について、『日本文学盛衰史』の高橋源一郎が評論家で又、ライトノベルにこだわりをもって『キャラクターズ』というキャラクター小説を書いて物議を醸している東浩紀と、「フェミニズムを越えて」(群像07年10月号)で笙野頼子と侃々諤々やっている、赤木智弘と同世代の田中和生が雑誌『新潮』の二月号、三月号で「小説と評論の環境問題」について大討論している。
 そこで、高橋源一郎赤木智弘の『「丸山真男」をひっぱたきたい』は石川啄木の「時代閉塞の現状」とそっくりだと指摘していたので、青空文庫にアップしているテキストを改めて読んでみると、その驚くべき類似にびっくりする。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 遊民ですか、まさに、フリーターですね。スゴク似ている。「遊民」も「フリーター」も視点を変えればカッコーのいい言葉であったことも似ている。昔の中卒ですが今の大卒、いやそれ以上の教養があったかもしれない。本人自身もまわりもそんな風に見ていた。だからこそ、やるせなかったわけ。僕のオヤジも旧制の中学を卒業し結局、18歳から28歳頃まで大陸で青春時代を過ごすのです。召集令状をもらったのが、昭和12年7月27日ですね。
 で高橋源一郎×田中和生×東浩紀の討論は前月号につづいて白熱したものとなっているが、

そう。職がない。漱石もしかりです。つまり、現在は百年前の状況に戻っている。フリーターとニートとひきこもりが多く存在し、そこから自然主義に基づいた貧困小説が生まれています。前田司郎や岡田利規自然主義リアリズムに完全に回帰しているかと言えば、もちろんいくつかの屈折はあるでしょうが、基本的には時代閉塞の状況をダイレクトに描いている。要するに、日本の小説は百年が経過し、ある意味、初期化しています。そして、それらをすごく新鮮に面白いと思ってします自分自身にもびっくりします(笑)。(雑誌『新潮・3月号』の「小説と評論の環境問題 第二部」p108)

 啄木の批評精神をどのように今の時点で読み取るか、確かに、ライトノベルのみならずケータイ小説の登場によって読み手よりは書き手の方が多いといういわばカラオケ状況によって、文学にまつわる神話や特権性が高橋さんたちの書くことのよって位相を変換しようとした運動(近代文学ポストモダニズムによって解体)が意図も簡単にネットやケータイのツールによって変貌を遂げたと言う事態の謎を東浩紀は単に産業構造が変わっただけだと言う。
 最後に高橋源一郎の結語が面白い。

ここまで、お話を伺って、東さんに対する長年の疑問が、少なからず解消したような気がします。それは世界がどのように変わろうと、東さんの言い方を借りるなら、文学環境がどう変化しようと、変わらないものがある、あるいは、変わるべきではないものがある。それを「倫理性」と呼ぶなら、東さんの書かれるものは、その「倫理性」を希求しているように思えるということです。それは、東さんという存在から連想される、ポストモダンという言葉、それに亡霊のようにつきまとう「遊戯的」という言葉、あるいは態度とは、遥かに隔たったものです。別の言い方をするなら、その「倫理性」は、とうに失われた、近代文学初期のそれの、厳格さに近いものを持っているような気がするのです。その「倫理性」は、近代文学の「私」が要求していたものとは、大きく異なっているはずなのに、なぜ、そんな印象を受けてしまうのか。それは、東さんの現在が、近代の「終わり」ではなく、別のなにかの「始まり」に属しているからなのかもしれませんね。

 僕は赤木さんに「実感モード」で、ケータイ小説を書いて欲しい、読んでみたいと思いました。

 追記:syakekanさんが、僕のブログの方にこのエントリーと同じ文に対して赤木さん、syakekanさん、僕のコメントの応酬がカキコされているから、ここのコメントにコピペするような示唆をされました。でも、ここは、僕の管理している場ではないし、赤木さんの了承も必要であろうし、リンクを張っておきますから、興味のある方はこちらをクリックして、コメントを読んで下さい。もちろん、カキコも大歓迎です。

ベッドのなかで考えたこと

2ヶ月ほど、入院しておりました。

とにかく病院ってところは、検査や診察がなければ全然やることがない。持ち込んだ本が尽きるとあとはダラダラTV観るかラジオ聴くか。でなければ寝転がってくだらない考え事を延々とするしかないわけですね。

で、ひとつ感じたこと。

職人さんって、やたらとTVに出てるのね。

ニュースでもよく出てくるし、旅番組でもレポーターが地方の職人さんを訪ねるシーンは定番ですしね*1。昨年11月に静岡県技能五輪が行われたことと絡めて、出場した選手を取り上げた番組も多かったですね。

その傾向が、去年今年あたりからすごく強まっている印象を感じたわけです。これはひょっとすると、

「若年層をモノづくりの世界に呼び込もう」という機運が、産業界に高まってきているから

ということなんじゃないかと。そういえば以前、こんな雑誌記事もありました。

中小企業は新卒者や第2新卒を採りたくても、思うように採用できない。(中略)特に製造業は、後継者不足に悩んでいたり、長期不況のなかで進んでしまった技術者の高年齢化に歯止めをかけたいという強い動機がある。(中略)技術者を養成したいと思っている中小企業ならば年長フリーターでも一人前に育ててくれる。

週刊エコノミスト2007年6月19日号・29頁)

製造業のなかで熟練した技術を要する分野では、2007年問題は杞憂どころではないってことなんでしょう。それでなくても伝統工芸の工房や町工場などでは慢性的な人手不足が続いてますし。

このことを逆に言えば、

二十代三十代の貧困層も、モノづくり系の企業を狙うとラクに就職できるかもよ!


ということかもしれません。問題はその情報が肝心の若年貧困層に届いていない可能性があるってことでして、企業も求人情報の提供方法に工夫をし、求職者もアンテナの張り方を工夫するとうまくいくかもしれないです。

*1:アド街のランキングで町工場がランクインすることも最近増えてる気がする。