こ、国民国家が溶けている!


深夜のしまねこブログから

最近はあんまり報道されなくなってきたガソリン高騰問題だけど、そのなかに「暫定税率を切り下げろ」という話がある。そしてその「切り下げの猶予」として「無駄な道路」があげられることがある。
 でも「無駄な道路」って、本当にあるのか?

 よく、「こんな田舎に、毎日10数人しか利用しない、こんな立派な道路があって、建設費用がいくらいくらで、これは無駄な道路だ!」なんていう人がいるけれども、その「毎日使う10数人」にとっては、必要な道路なんだろ。
 じゃあ、これが無駄だというなら、その10数人には道は必要ない、もしくは路肩が崩れそうな道路を恐々走っていれば、いいということなのか。
 国は「平等」を守らなければならないのだから、都会のど真ん中に住んでいる人にも、田舎の隅っこに住んでいる人にも、同じサービスを与えるのが当たり前なのだ。ならば道路ができるのも、当たり前ではないか。
 それでも、無駄な道路をつくるなというなら、同時に田舎の隅っこに住んでいる人に対して、「そういうところに住むと、国はそこまでサービスを延長しなければならなくてお金がかかるから、そんなところに住むな!」という必要がある。
 逆に「そういうところを選んで住んでいるのだから、国はそうしたわがままな人たちに対して、サービスを提供する必要はない」という考え方もある。いわゆる「無駄な道路論」というのは突き詰めればここに達するはずなのだが、たいてい無駄な道路を糾弾する人たちは、無駄な道路を使わないと生活できない人を糾弾しない。エエカッコしいなんだろうな。

 「居住地の自由」と「無駄な道路をなくせ」の論理は相いれない。無駄な道路を受け入れて居住地の自由を守るのか、居住地の自由を制限しても無駄な道路をなくすのか。
 箱物行政批判は一見簡単に見えるけど、実は全然簡単じゃない。

*1

この赤木さんの問題提起の根本には「国家は平等な国民によって構成されたものである」という国民国家の原則に基づいたものである。この原則によって自由党星亨、政友会原敬我田引鉄と言われる利益誘導が行われてきた。田中角栄はその完成者と言えるだろう。小熊英二さんの『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』には「地方と都市の圧倒的な格差がナショナリズムによって解決されるべきである」といった話が書いてあった*2

しかしその原則がゆがんでいる。いわゆるグローバリゼーションってやつだ。1月22日の『思想地図』のシンポジュームで未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)の著者ある白井聡さんがこんなことを言っている*3

現在のグローバル化の進展により国民統合というものがフイックションとしても成り立ちえなくなっている。ポストフォーディズムケインズ主義によって資本と労使の相互に利益が行くようになった。それが20世紀後半のナショナリズムを支えていた。しかし現代は各階級が別々に分断化され、「一枚岩的な国民」が想像できない状況になっている。「国民はいないのに国家は残る」という状態、「国民なきナショナリズム」という状況になる。そして分断化され人々の中で唯一残された共通関心がセキュリティーなのである。

最後に残された共通関心がセキュリティーなのは象徴的だ。赤木さんが目覚めたきっかけもスクールバスで自分が犯罪者予備軍扱いされていることへの反発だ。まさにセキュリティーである。

白井さんは仲正昌樹さんとの対談で「この格差社会に国家はなにをしているんだ!?と思っている私は右翼じゃないか?」みたいなことおっしゃっていた*4が、まさにその通りだと思う。想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)というインテリ連中ならほぼ読んでる本があるんだけど、読んで「やばくね?」って思ったの。「国民国家が想像の共同体であるならば、国民間で富の再分配する筋合いもないし、地方も切り捨てほうだいじゃん」って。ま、『想像の共同体』が出てだいぶたって「新しい古典」なんて呼ばれてるけど、なにがあろうとグローバル化は進展しただろうけど、それを肯定した背景にはこのような思潮があったと思う。

いやだからどうする?

と聞かれても「私には建設的な提案なんかひとつも無いっ!」*5
*6

*1:http://www.journalism.jp/t-akagi/2008/02/post_262.html

*2:記憶は曖昧

*3:もちろん、僕の脳内を通過しているので気になる方はニコ動で確認しましょう。http://www.nicovideo.jp/watch/sm2136294

*4:

情況 2007年 10月号 [雑誌]

情況 2007年 10月号 [雑誌]

*5:外山恒一

*6:そもそも私は後ろ向きな歴史研究者であってw社会学者みたいに積極的な(うさんくさい?)提案はしないんですよ。ま、まじめな話をすると意識はしてますよ。対象の選択で、問題意識で、分析視覚で。でも表に出すもんじゃないし。通じないしね。回りまわって何か起こるかもしれないし、起きないかもしれない。そんなもんです。学問なんて