石川啄木から赤木智弘

新潮 2008年 02月号 [雑誌]新潮 2008年 03月号 [雑誌]
 ちょいと、こちらが、閉塞状況なので、僕のブログにアップしたエントリーをそのまんま掲載いたします。悪しからず。高橋さん、東さん、田中さんが、『新潮』で面白い指摘をしていますね。
 現在の日本の文学状況について、『日本文学盛衰史』の高橋源一郎が評論家で又、ライトノベルにこだわりをもって『キャラクターズ』というキャラクター小説を書いて物議を醸している東浩紀と、「フェミニズムを越えて」(群像07年10月号)で笙野頼子と侃々諤々やっている、赤木智弘と同世代の田中和生が雑誌『新潮』の二月号、三月号で「小説と評論の環境問題」について大討論している。
 そこで、高橋源一郎赤木智弘の『「丸山真男」をひっぱたきたい』は石川啄木の「時代閉塞の現状」とそっくりだと指摘していたので、青空文庫にアップしているテキストを改めて読んでみると、その驚くべき類似にびっくりする。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 遊民ですか、まさに、フリーターですね。スゴク似ている。「遊民」も「フリーター」も視点を変えればカッコーのいい言葉であったことも似ている。昔の中卒ですが今の大卒、いやそれ以上の教養があったかもしれない。本人自身もまわりもそんな風に見ていた。だからこそ、やるせなかったわけ。僕のオヤジも旧制の中学を卒業し結局、18歳から28歳頃まで大陸で青春時代を過ごすのです。召集令状をもらったのが、昭和12年7月27日ですね。
 で高橋源一郎×田中和生×東浩紀の討論は前月号につづいて白熱したものとなっているが、

そう。職がない。漱石もしかりです。つまり、現在は百年前の状況に戻っている。フリーターとニートとひきこもりが多く存在し、そこから自然主義に基づいた貧困小説が生まれています。前田司郎や岡田利規自然主義リアリズムに完全に回帰しているかと言えば、もちろんいくつかの屈折はあるでしょうが、基本的には時代閉塞の状況をダイレクトに描いている。要するに、日本の小説は百年が経過し、ある意味、初期化しています。そして、それらをすごく新鮮に面白いと思ってします自分自身にもびっくりします(笑)。(雑誌『新潮・3月号』の「小説と評論の環境問題 第二部」p108)

 啄木の批評精神をどのように今の時点で読み取るか、確かに、ライトノベルのみならずケータイ小説の登場によって読み手よりは書き手の方が多いといういわばカラオケ状況によって、文学にまつわる神話や特権性が高橋さんたちの書くことのよって位相を変換しようとした運動(近代文学ポストモダニズムによって解体)が意図も簡単にネットやケータイのツールによって変貌を遂げたと言う事態の謎を東浩紀は単に産業構造が変わっただけだと言う。
 最後に高橋源一郎の結語が面白い。

ここまで、お話を伺って、東さんに対する長年の疑問が、少なからず解消したような気がします。それは世界がどのように変わろうと、東さんの言い方を借りるなら、文学環境がどう変化しようと、変わらないものがある、あるいは、変わるべきではないものがある。それを「倫理性」と呼ぶなら、東さんの書かれるものは、その「倫理性」を希求しているように思えるということです。それは、東さんという存在から連想される、ポストモダンという言葉、それに亡霊のようにつきまとう「遊戯的」という言葉、あるいは態度とは、遥かに隔たったものです。別の言い方をするなら、その「倫理性」は、とうに失われた、近代文学初期のそれの、厳格さに近いものを持っているような気がするのです。その「倫理性」は、近代文学の「私」が要求していたものとは、大きく異なっているはずなのに、なぜ、そんな印象を受けてしまうのか。それは、東さんの現在が、近代の「終わり」ではなく、別のなにかの「始まり」に属しているからなのかもしれませんね。

 僕は赤木さんに「実感モード」で、ケータイ小説を書いて欲しい、読んでみたいと思いました。

 追記:syakekanさんが、僕のブログの方にこのエントリーと同じ文に対して赤木さん、syakekanさん、僕のコメントの応酬がカキコされているから、ここのコメントにコピペするような示唆をされました。でも、ここは、僕の管理している場ではないし、赤木さんの了承も必要であろうし、リンクを張っておきますから、興味のある方はこちらをクリックして、コメントを読んで下さい。もちろん、カキコも大歓迎です。