知らなければ何もはじまらない


小林さんのエントリーを読んで、コメントを書いていたのですが、長文になってしまったのでエントリーとして投入します。


ライター業もたいへんですよね。私も時々やっていますが、いうまでもなく赤木さんの知名度にはかないません。かといって、ひとりで出版社をやっていても、瀕死の状態ですよ(笑)。


さて、なぜ「論座」が赤木さんに論考を書いてもらう気になったのかは、私もぜひ、担当編集者の方に聞いてみたいです。でも、私には何となくわかるんですよ、その気持ちが。あくまでも、「なんとなく」なんですけどね。以下、その「なんとなく」という部分について、書こうと思います。


赤木さんが現役の「フリーター」であることはまちがいありません。そして、そのフリーターの声に、過剰な「論理的な一貫性」やら「細部の証明」やらを求める必要性は、私にはあまり感じられませんでした。そうではなくて、一人のフリーターの声は、多数のフリーターの声である可能性が高く、その声は時代の気分、もしかしたら社会状況の一側面を的確にあらわしているのではないか。そう思ったんです。そして、そういった思いは、「論座」の担当編集者にも私にも、共通しているんじゃないのかなあ、たぶん。


鮭缶さんが紹介しているように、井上寿一さんの『日中戦争下の日本』 (講談社選書メチエ)には、日中戦争当時の兵士や農民の気分が書かれています。その彼らの気分と現代のフリーターの気分が似ていると仮定すれば、当時の世の中といまの世の中が似ているのかもしれないなあ、なんて気づきが生まれたりするでしょう。そこのところを、私はたいせつにしたいんです。


ある学者さんに、赤木さんの本を出すことをいったら、こういう答えが返ってきました。赤木さんの物言いには、賛同しても反対しても、「けっきょく当事者じゃないから、わからないでしょう」とスルーされるのがオチだ、と。そりゃそうですよ。高学歴の人には低学歴の人の気持ちはわからないし、金持ちには貧乏人の気持ちなんてわからない。極端なことをいえば、男には女の気持ちがわからない。その逆もしかり。


とはいえ、「わからない」けれども、「知る」ことはできるんじゃありませんか。「知る」ことによって、その当事者に近づくか遠ざかるかの判断がつくかもしれません。当事者じゃないからって、スルーしてばかりいたら、近づきもしないし遠ざかりもしない状態、つまり思考停止の状態になってしまうと思うのですが。また、その学者さんは、思考停止にはなりたくないけど、めんどうなことに関わりたくもない、というのかもしれません。ならば、それは単なる自己防衛なのですから、「どうせ赤木さんに『けっきょく当事者じゃないから……』といわれるんで……」なんて言い方をせず、「めんどうなことに関わりたくない」とはっきりいってほしかったんですよね。


おそらく赤木さんが「戦争」というキーワードを使ったため、拒絶反応を起こしたがごとく、「論座」やウェブ上で赤木さんを批判する噴き上がった文章がたくさん見られました。しかし、赤木さんが提示した「戦争」という言葉を、「日中戦争下の日本」の状況(のみならず、日本の近現代史)を見すえたうえで相対的に読み込んでみると、赤木さんがけっして拒絶反応をまねくようなことをいっていないことが、なんとなく理解できるのではないでしょうか。


つまり、いまの時代を、数十年後や数百年後に「あんな時代があったのか」と学者先生などが検証したり振り返るとき、フリーターとしての赤木さんが書いた「論座」の論考が、いまの「時代の気分」の一側面を伝えらる参照項になるかもしれない、と私は思ったりしているわけです。でも雑誌は一過性のもの(まあ、大宅文庫とかには残りますが)なので、内容を補足したうえで書籍にして残すことにも意味があるのではないか、と思っているんです。


もちろん、そんな悠長なことはいっていられません。『若者を見殺しにする国』によって、一人のフリーターから見た「現代日本の病んだ部分」を読者に知っていただくことが、刊行の第一義です。その「部分」が、ある人にとっては病んでいないと思えるかもしれない。ある人にとっては、もっと病んでると思えるかもしれない。その判断は、じっくりと読んでから喧喧諤諤(けんけんがくがく)していただければいいと思います。


とにかく、知らなければ何もはじまりませんので。