赤木智弘を応援する理由2 車社会の苦しみ

赤木智弘さんを応援する理由3つのうちの2つめは、車社会について彼が言及した点である。
車社会での不安定貧困層の絶望について、赤木さんは「論座」1月号で述べていらっしゃる。
にもかかわらず、『論座』4月号での集団トラックバックには、そのことに直接指摘した論考はなかったのだ。

赤木智弘さんのお住まいの地域は、日本でももっともモータリゼーションの徹底した場所である。wikipediaでも両毛デルタ地帯のなかには、車のほかバスや電車などの別の交通手段がない地帯さえあると指摘している。参照:モータリゼーション
ということは、たとえ遠くに職があっても、自分で車を所有し、運転しなければ職につけないということだ。
しかし、徒歩や自転車で通勤できるところには、コンビニやファミレス以外には勤められる場がない。
一度低賃金不安定職につくとどうなるか。アメリカで貧困層の仕事と生活を実際にやってみた記録を紙の本にしたエーレンライクの『ニッケル&ダイムド』によれば、貧乏人はサービスの仕事につくために、金持ちの多数住む家賃の高いところに住まわざるを得ない。車がなければ、遠い家賃の安い地域からそちらに通うことはできない。また、ウォルマートは、お客の少ない時間帯には従業員を帰宅させ、忙しい時間になるとまた呼び戻す労務管理をしいている。そうすると、低賃金で高い家賃の場所に住むことになる。いい住宅も職場も遠いところにある。したがって、車がなければ次の職は見つからない。
日本でも郊外化・産業の空洞化によってアメリカに近い環境ができている以上、条件は近い。
町工場も、近年ではコールセンターなども中国に移り、近所に時給7−800円くらいの派遣・バイトなど使い捨ての職しかない。
郊外は、歩いたり自転車をこいだりして気持ちのいいところではない。どこまでいっても同じ風景、コンビニを一歩出れば方向感覚を見失う。特色ある工場やお店はほとんどない。同じ距離でも歩くと遠く感じる。基本的に移動には車を「必要」とさせられる。車のない貧乏人に残されるのは、絶望と閉塞感だ。
交通渋滞や騒音や排気ガスによる公害以外にも、車社会はプレカリアートの生きる権利を直撃している。
もしもこれほど車社会が進展しなければ、中小の通りには特色ある家や商店がたちならび、子どもも大人も老人も障害者も乞食もそこにいて当たり前の光景があるはずだ。そこでは失業してもその町の人間としての居場所がある。近くに働ける工場や商店が、または市場もある。つまり人が排除されにくい。
今や居場所としての道は車と巨大商店に占拠され、閉鎖空間となっている。大都市部では、レイブイベントによってつかの間取り戻せるだけだ。地方では、できない。
その点について、赤木は凝縮した表現であらわした。一方、サヨクの論客らは視点不足により、意見できなかった。
車社会を問題として認識しているものにとって、サヨクよりも赤木のほうがよくわかっていると判断するのは当然だ。
サヨクは、車化社会による自然環境破壊という「緑」の視点だけではなく、「百合」(不安定層→ゆらゆら→百合)の視点も理解すべきだ。でなけければ、保守の経世会的再分配政策や天皇民主主義におしのけられ、若者からは何度でも「ひっぱたきたい」と言われ続けるだろう。