赤木言及リンク集 その2

約1ヶ月ぶりとなる、まとめリンク集です。

対象となる期間は9月21日から10月27日現在まで。

21日以前はその1をご覧下さい。

※全て『若者を見殺しにする国』発売前のエントリです。



赤木さんは深夜のシマネコというホームページを立ち上げていますが、そこに描かれている首をつっている自身?のイラストが印象的です。実際戦争は永遠にないですが、それは今の彼の心の中を照らした比喩だと思います。
自己犠牲的な方だからこそ、この様な本の出版にこぎつけられたのだと思います。
自分達の年代を踏みしめて泣きながらでも生きていってほしい、そしてみんな同じ年代なので野の原一面に花が咲いている光景が目に浮かびます。


 私くらいの年代(5←45歳→5)だと、当時は朝日新聞だけでなかったなあ、偏向してたのは、うん、そんな新聞やテレビ、メディアに巣食うアカ学者が、自分は高給を食みながら安全圏より放たれる言葉、「若者よ、政治に興味を持とう」の詐術に騙されて、子供の頃から、政治に興味を持つことが、さぞかし良い事のような洗脳を受けた人が多いだろう。
 無論、本音は「政治に興味を持つ」ではなく「左翼を伸ばそう、自分は一切傷つかずに」なのだ。
 70年安保なるものは、それを欺瞞とした人達が文字通り「丸山眞男をひっぱたきた」くなったのであり、だからこそ赤木智弘は面白いようにあの題名に騙されたアカを釣り上げられたのだろう。


ニート」「フリーター」という言葉には、「やる気がない若者」とか「責任を負わない勝手な若者」とかいうイメージが、私にはありました。たぶん多くの人たちが同様のイメージを持っているような気がします。私も「大人の説教」として、「もっと努力しなさい」「みんな努力して、がんばっているんだから」というステレオタイプな「人生訓」をいう可能性がありました。少なくとも、『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』という論文を読むまではそう思っていました。
以前も書きましたが、この論文を読んで私は「苦しい」という感情を持ちました。彼らの状況・感情を理解しないで、無意識に作られた「レッテル」を張っている自分が相当「おバカ」なのかもと・・・・(よくそう思うのですけどね(笑))


犯罪の被害者やその遺族というのは確かに、拉致被害者の人々なんかと同じく、社会からほぼ放置されてきた(加害者もサカキバラのような例外を除けば放置されてるが)。政権与党は勿論、リベラルもこの点は同罪だろう。今のリベラルは、自分たちの既得権を守ることしか頭にない。自民党の道路族なんかと何が違うのか。既存リベラルへの失望は、若者の貧困問題を訴える赤木智弘さんなども書いておられる。今やこの国を二つに分けるのは、右左ではなく、南北(持つものと持たざるもの)か。


「第2章 私は主夫になりたい」の中の「個人の平等から、世帯の平等へ」という節題に、おやと思いました。もちろん(まだ出ていないので)中味は読んでいませんので、どういうことを書いているかは判りませんが、私が理解するかぎり、この「世帯の平等」こそが、1930年代からの「社会主義の時代」に確立し、1990年代に「企業主義の時代」が終わるまでの60年近くの間の日本社会の正義であったものなのです。


 私は最近体調がすぐれず映画館通いもできない状態ですが、そんな私たちを尻目に「夢の印税生活」への第一歩を踏み出した赤木智弘さんに、同業者?として、ささやかな祝福を贈りたいと思います。
 赤木さんといえば「丸山真男をぶん殴りたい(だった……と、思う、違ってたらゴメン)」という笑撃的論文で一躍有名になった自称「フリーター」です。日本が戦争をすればアメ公の空爆を食らって社会がめちゃくちゃになり、「フリーター」でもハゲザル羽柴筑前のように天下が取れるかも、というようなことを言っているのですが、それならここ500年間世界侵略に血道をあげてきた大英帝国はどうよとか、まあそういうささやかな疑問はあるのですが、とにかく、この論文によって左翼論壇に激震が走ったことだけは確かです。そして今や彼は、雑誌にテレビに引っ張りだこ、極左論壇の新しい旗手として世間の注目を集めるまでになっています。


サウンド・イメージ研究所ラボ・カフェ・ズミとのコラボレーション企画 『談』公開対談 「いかにして消尽したものになるか…死の贈与、生の贈与」を開催した。<中略>さて、そんな中で公開対談は始まった。今回の特集を思いついた一つのきっかけが澤野雅樹先生の『不毛論』。時あたかも2001年、9.11の年に発行。何かリンクするものがあったのではないかという問い掛けから対談をスタートさせた。議論は、有用性/無用性の話からダメ連に。それを受けて赤木智弘さんの論文「気分は、戦争」をネタに、若者は、無用であることに絶えられなくなっている。自分の承認がモーターにならないと現状を分析。


  以前に、戦争願望の若者が居るということは、耳にしたことがあったが、全文を読んだのは、今日が、初めてだ。「なるほど」言いたいことは、よくわかる。”ポストバブル世代に押しつけられる不利益”というくだりは、同じくポストバブルの就職氷河期時代を過ごして来た者として、大いに、共感できる。
 この文章を書いた、赤木智弘氏も、何も本当は、好き好んで戦争なんかしたくない筈だ。平和的に、人間的尊厳や金銭的分配が得られるのであれば、それで、満足なんだろうと思う。ただ、現在の状態が変わらず、延々と続くだけの”平和”であれば、「いらない」と言っている。このことは、「単なる戦争願望の危険思想の若者」と切り捨てないで、重く受け止める必要がある。
 どんな内容の仕事であれ、キッチリ、一日8時間労働した者には、マトモな待遇・賃金を与えるべきだ。働いているのに、部屋も借りられない、結婚も出来ないでは、希望も何もあったものではない。戦争で、何もかにも、レジームチェンジしてしまった方が良いと思うのも、無理はないだろう。わたしは、このような人達を救うための、物価上昇なら、喜んで受け入れる。特定の層を犠牲にして成り立っている、現在の、低価格大量消費社会なんか、クソ食らえだ。
 これ以上の外国人労働者の受け入れにも反対だ。どうしても受け入れるというのなら、外国人にも、最低時給1000円を保障すべきである。それが出来ないなら、これ以上、外国人を入れるな。


丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
を発端に、おもしろいやり取りが行われている。
池田信夫 blog』のエントリー「労働組合というギルド」に対して、『EU労働法政策雑記帳』のエントリー「半分だけ正しい知識でものを言うと・・・」が異論を唱え、さらに『池田信夫 blog』が「厚労省にはフリーターが見えないのか」で反論。これに対して『EU労働法政策雑記帳』が、「池田信夫氏という現象」で食いついている。
とてもおもしろいやり取りなので、ぜひ上から順に読んでいただければと思う。この問題の根の深さが見えてくるのではないだろうか。
私自身は池田信夫氏のほうが、冷徹な視点ではあるものの、そのぶんニート・フリーター問題を正しく理解していると思うし、赤木智弘氏が示した「不安」「焦燥」「絶望」を読み取っているように見える。
対して『EU労働法政策雑記帳』の濱口桂一郎氏は、この問題を「社会現象」や「データ」としては理解しているのかもしれないが、どこかよその世界の話のように感じているのではないだろうか。
肝心なのは「労働組合」という言葉の定義付けや解釈ではなく、
「現在の労働組合は、正規労働者の既得権を守るために機能している」→「非正規労働者とは対立関係にある」
という点なのに、それがわかっていない。労働組合がギルドか否かとか、中世ギルドに関する解釈が違っているとか、そういう問題ではないのだ。


フリーターの告発「『丸山眞男』をひっぱたきたい」をめぐって始まった議論は延々と続き、コメントも3つの記事の合計で400を超えた。なぜ「就職氷河期」が起こり、10年以上も続いたのか、こういう状況をどうすれば是正できるのか、についていろいろな意見が出たが、ここで私なりの感想をまとめておく。<中略>
だからマクロ的にみて最も重要なのは、労働市場を流動化させて人的資源を生産性の高い部門に移動し、労働生産性を上げることだ。そのためには、流動化をさまたげている正社員の過保護をやめるしかない。労働者派遣法には派遣労働者を一定の期間雇用したら正社員にしろといった規定があるが、これは結果的には企業が派遣労働者の雇用を短期で打ち切ったり「偽装請負」を使ったりする原因となるだけだ。労働市場の反応を考えない「一段階論理」の設計主義による労働行政が、結果的には非正規労働者の劣悪な労働環境を固定化しているのである。
問題は、非正規労働者を正社員に「登用」することではなく、労働市場を競争的にすることだ。ゾンビ企業などに「保蔵」されている過剰雇用を情報・金融・福祉・医療といった労働需要の大きいサービス業に移動すれば、成長率を高め、失業率を減らすことができる。そのためには労働契約法で雇用を契約ベースにし、正社員の解雇条件を非正社員と同じにするなど、「日本的ギルドの解体」が必要である。また「都市と地方の格差」を是正するよりも、逆に都市への人口移動を促進する必要があり、農村へのバラマキをやめて地方中核都市のインフラを整備すべきだ。


赤木智弘の「「丸山眞男」をひっぱたきたい」を雑誌で読んだとき、好感を持ったのは「ひっぱたきたい」だったからである。
 ここは「ぶんなぐりたい」でもよかったはずで、じっさい丸山真男は軍隊で毎日ぶんなぐられてたわけでしょう、ひっぱたかれてたわけじゃなく。にもかかわらず赤木さんは「ひっぱたきたい」にした。
 心根の優しい人なんだな、廉恥心のある人なんだな、と思いました。そういう人が「希望は、戦争」と悪役を買って出て、自分のカッコわるいところをさらけだしてする問題提起である。そういうものが世に出るのはとてもいいことだ。だから赤木論文が本になるのもとてもいいことだ。


赤木さんは 言う。
『我々が低賃金労働者として社会に放り出され てから、もう10年以上たった。それなのに社会は 我々に何も救いの手を差し出さないどころか、 GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、 罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平 等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、 流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。 その可能性のひとつが、戦争である。』
 冷静な自己分析力を備えている赤木さんには危 惧を抱かないが、世に言う「右傾化」という共同的 無意識は「〈戦争意志〉の生活意識水準における 定着」の新しい動向ではないかと危惧する。 まさに「現実的な疲弊・困窮がそれ自体への救済 へ向ってではなく遠心的に振り落されていく」 過程ではないか。杞憂にすぎなければ幸いだ。


赤木の住んでいる栃木県は、日本でももっとも郊外的ライフスタイルの徹底した地域だからです。 そのことを、「論座」で赤木に応答した論客は、誰も指摘していません。(もしも生きていれば宇沢弘文が、それがだめなら杉田聡が応答すべきでした。)


来週のゼミでの議論発表を担当する澤田です。議論の内容としては「関係論からみる格差論・スティグマ論」です。<中略>次に論点(a)〜(d)についての資料として『丸山真男をひっぱたきたい』と『続・丸山真男をひっぱたきたい』を読んできてください。もちろん各論点を踏まえて読んでほしいのですが、この赤木智弘氏の気持ちが理解できない人がいるのはなぜなのかも考えてみてください。自身が赤木智弘氏の気持ちが理解できない人も、どこで理解が分断されているのか考えてみてください。


アメリカでは奨学金欲しさに兵役につく若者がたくさんいる。貧困は兵士の供給源です。非正規雇用弱者が戦争にいくことをチャンスだとも思い、名誉だとも思う。アメリカへの義理立てで海外軍事行動に参加し、アメリカの支配層とのタッグで先行きもやっていこうとする日本の支配層、富裕層にとっては、ありがたい話でしょう。
 でも、表立って拍手はできない。そこに赤木さんの仕掛けがあるかどうかはわかりませんが、『論座』の仕掛けはあるでしょう。赤木さんは意識的にネタとして支配層を挑発はしていないで、「左翼」に毒づいているのですが、議論の構造からいえば、支配層にとって危険な言論なはずです。


文部科学省は「五流官庁」。よい鉄が釘にならないように、よい成績で国家公務員一種(昔は上級)試験を受かった者は、決してこのお役所を志望しない。<中略>高学歴の官僚がよりつかないこのお役所は、ある意味ノンキャリアの天国である。文部省と呼ばれていた時代には、大学の学部学科の新設に際して厳密な審査があった。各大学の学長に応対するのはノンキャリアのお役人たちである。えらい学者先生たちは、暖房もない寒い廊下で、背もたれもない椅子に座らされて延々と待たされる。そして主として高卒のお役人たちは、高名な学者に対して居丈高で侮辱的でさえある「指導」を行うのである。
 ノンエリートが、丸山真男のお仲間を「ひっぱたく」。赤木智弘氏垂涎の光景ではないか。国家公務員試験の年齢制限も安倍内閣の「再チャレンジ」政策のおかげで延長された。公務員試験を受けて、文部科学省に入ることを彼には強く勧めたい。しかしいまや大学設置基準は大綱化され、文部科学省はあまり介入してこなくなった。件のサドマゾヒズム的情景も過去のものになってしまった。その意味でも赤木氏は「遅れてきた青年」のようにみえる。


赤木さんや杉田さんの怒りの言葉のような「ラディカルな言葉」にあまり淫するのは危険(後述)だと思うんですよね。またラディカルさにしてもどこがどうラディカルなのか、というのがポイントで、わたしの好きな哲学者の小泉義之さんのラディカルさ、青い芝の会の運動のラディカルさと杉田さんや赤木さんのラディカルさとはちょっと違うような気がしますし、ラディカルなだけでは実際に物事は動きにくいように思います。このへんのことは仲正昌樹さんが再三指摘している通りではないかと。


正社員という点で赤木氏とは立場を異にする私も、赤木氏の「気分」には共感を覚える。逆に同世代で共感を覚えない人は、既得権にどっぷり漬かっている人か、よっぽど危機感がないか、鈍感か、よほど違う現実を生きているのか、あるいはこういう「気分」を言語化できる赤木氏に対する嫉妬があるかのどれかではないか、とすら思う。
私が自分を「ちょっと恵まれたフリーター」と認識し、結婚もせず、家族も持たず、30年ローンで家も買わない、ということを、以前からほぼ既定路線であったものの、明確に覚悟したのは、赤木氏の文章を読んだことによる部分が大きい。


赤木論文に対して、姜尚中福島瑞穂佐高信鎌田慧などがいろいろ書いているようだが、全く的外れとしか思えない。
一方で、赤木氏が八代尚宏を評価しているのが興味深い。八代尚宏は、典型的な新自由主義者であり、小泉・安倍改革の推進者である。八代は、非正規雇用者の待遇を上げるためには、正社員の待遇を下げることが必要だと主張する。もちろん左翼勢力は、そういう八代の主張を新自由主義と切り捨てるだけであるが、非正規で過酷な労働を強いられている若者からすれば、均等待遇と口では言うものの具体的な提案をせずに、結果的に中高年の既得権を守るだけの左翼よりも、八代のほうがまともに思えるのは当然であろう。


「希望は、戦争。」の赤木智弘雨宮処凛は、同じ1975年生まれだけど、個人の資質としては、全然重なるところはないと思う。
赤木は、基本はかなり保守的な感性の持ち主で、時代が違えば、普通にまったりくらしていけるタイプなんじゃないか。それに対して雨宮は、たぶん時代に関係なく、資質的に生きずらいというか、つねに人生に過剰なまでの強度を必要とし、まったりできないタイプ。
そんな全然資質の違う人間が、期すぜして、社会に対して同じような異議申し立てをしている。


正規雇用の雇用保障を温存したままにせよと主張し、非正規雇用の困窮を憂えてみせる人は、本心では他者の貧困にたいして関心が無い偽善者に思える。「『丸山真男』をひっぱたきたい」の赤木智弘氏は、そういうサヨク、そういうエセリベラリストを告発している。彼の論考が朝日新聞の『論座』で発表されたのは、朝日の偉大なる鈍感さのなせるわざだ。


そして赤木の主張に触れるたびになぜか、こう感じてしまう。
「赤木には絶望が足りていない」
あの一万字を締める文言にも、甘やかな「国家への希望」が語られていた。
そしてこんどの書籍においても、甘やかな「社会への希望」が語られている。
絶望を口にする人間が、なぜそこまで甘えを「希望」できるのか。
私には理解できない。
今、この国に必要なのは「希望」ではない。――「沈黙」だ。
自らの「希望」を唱えることで何かが変わるというなら、とっくにこの国は「戦後レジーム」から脱却しているだろう。


面識はないが、赤木さんという若手の物書きのデビュー作が発売される。楽しみだ。
浜松にいると、こういう言説については、雇用の調整弁としての日系ブラジル人問題と重なる。
日系ブラジル人には日本のメディアでまっとうに発言する機会はない。貧困問題は当事者が語る言葉と、立場を獲得していないので、わかりにくい。日本人青年の貧困層も同様。赤城さんの著作は貴重な記録になるだろう。新しいタイプの書き手が登場したことを喜びたい


赤木氏の言うことは、確かに一理ある。「戦争希望」という氏の言葉を、額面どおりに受け取れば、僕は到底受け入れられない。
だが、氏にとっては別に戦争でなくたっていいのだろう。戦争である必然性はないようだ。さじを投げるわけではないが、人の考えることや思想というのは、結局その人のいまの立場や環境によって、大きく左右されてしまうものだと思う。
 識者は誠実に答えなければならない。説教しようとするのでなく、耳を傾ける必要があろう。いや識者だけではなく、誰しもだろう。だが、どうすればいいのか。
 大勢の生活・利益(既得権益)を守るために、一部の人に犠牲を強いていいのか。あるいは、皆が同じようにリスクを背負い、社会全体が流動的になって、さらなる混乱状態に陥るべきなのか。


朝日新聞の「論座」に載るというのは、左翼系雑誌に利用されているのでしょう。格差社会はこんな戦争を望む危険な思想を生んでしまった。このような社会構造を放置しておく事は将来禍根を残す事になるだろう。だから格差社会は是正されなければならない。まさしく良い標本が捕獲されたというわけだ。これは使える。彼の主張が評判を呼べば呼ぶほど格差社会が生んだ悪魔の子としての存在が強調される。こんな社会を放置しておけば第二、第三の赤木が。


赤木氏は硬直化した左翼を非難し、右翼もまた同じ穴のむじなで信用できないとする。言論人や知識人に対する絶望がありありと読み取れる。しかしこういう文章を発表するくらいなのだから真の絶望には至って無いはずである。心ある知識人はきっといる、これを読んで心入れ替えてくれる人はきっといるという一抹の希望はあったのではないだろうか。
しかし彼に反論した有名知識人たちはみな彼を支持していない、というかちょっと議論がずれているように思う。
平和な今の世の中で閉塞状況にある彼が、「国民全員が苦しみつづける平等」として戦争を希望するという論理はわかった。そういう人が一部右翼的言辞や小泉元首相を支持する(した)というのも理解できる。だが最近の言論右翼化の裏には彼のような心情の人が果たして多数派なのかどうか?そこのところが興味がある。


赤木氏も論壇デビューされたことだし、それだけで食えるかは別にして、考えることを生業にしようとすれば、いずれ大学のポストなどを探されるのだろうか。そうでなくとも非正規雇用であっても考えるための十分な余裕が得られることが理想ではあるが、それが赤木氏を批判する方々の「責任」に帰するのは筋違いというものだ。
但し「失われた世代」を生んだ社会構造は今なお解決していないし、そこに手をつけることは日本経済の持続的運営のために不可欠ではある。これは決して個人的問題ではない。これまでの仕組みは経済の拡大を前提にしていたが、もはや日本経済は成熟してしまったのだ。無理に成長を志向しても、それこそ恐慌や戦争の引き金を引いてしまう。
そうなる前に変化に適応し、持続可能な社会システムへと再構築していくことが、為政者や企業家の責務ではないか。戦争が短期的には国威発揚や経済発展を実現し、しかも戦争の多くは民衆が望み、為政者や企業家が利用してきた歴史的事実は重く、その点でも赤木氏の警句は傾聴に値する訳だが。


私は赤木氏と同世代である。新卒で就職、子どもは居ないが結婚しており、街中の賃貸マンションで暮らしている。
このblogにも何度か書いているが、私は今のレベルの生活---ペットが居て好きな本を買えて美味しいレストランにも気軽に行けて海外旅行にも毎年のように行って---を失うことに恐怖を感じている。危機感を持っている。実際の僕の安穏とした生活ぶりを知る人からは笑われそうな話だし、実際に最も身近なヨメからは「意外だ」というようなコメントを貰っているが、本当に危機意識を持っている。
具体的に何か悪い材料があるわけではない。しかし、この先良いことばかりが起こる、すなわち家庭レベルで平和が維持できる、という保証もないと思っている。自分自身や家族の病気や事故が最も恐いし、親や兄弟姉妹の病気も心配だ。
では私自身は何をすべきか。私のような立場の人は、何をするだろうか。
階層を落っこちないよう、今の足元を踏み固めることだろう。例えば以下のようなことである<中略>
私はよくこのblogで既得権益者を非難するが、私自身も既得権益者なのだ。既得権益を守ろうとしているのだ。そしてそれがフリーターを蹴落とす行為になっている。

前回同様、当blog参加者サイト/オールニートニッポン関係/「赤木智弘の眼光紙背」関係/部分転載だと誤解を招くもの/は除いております。