仲正昌樹さんからのコメント


赤木さんの論考に対するコメントが、仲正昌樹さんから届きましたので、以下に掲載いたします。

赤木くんの論考を読んで
仲正昌樹


 赤木くんが『論座』で書いていたようなことを言いたくなる気持ちは、私なりに分かるような気がします。


 私が、人より少し遅れて東大の院生になった九二年頃は、一般社会とは少しメカニズムが異なりますが、大学教員の労働市場バブル崩壊が起こり始めていた時期です。大学院生になるのが、二、三年違うと、就職の有利不利で相当な差が出ることが明らかでした。
 そういうご時勢だと、教員の労働市場の拡大期にちゃっかり就職してしまって、その後、あまりたいした仕事をしてないのに、ポストに居座ってエレベーター式に教授にまで昇進していく人たちに腹が立ってきます。
 とくに、六〇年代後半から七〇年代にかけての大学入学定員急増の恩恵を受けた、(元)左翼の教員の存在には腹が立ちました。自分たち自身も、自分たちが批判してきた「既得権益層」に属して、その特権を享受していることに対して無自覚な人たちにはムカつきました。
 そういう人たちを見ていると、「こいつらこそ暴力革命の打倒対象にすべきだ」というようなことを思ったりしました。とはいえ、実際に左翼的革命が起こったら、元統一教会信者である私などは、左翼知識人と一緒に打倒対象にされるような気がして、あまり具体的な希望は持ちませんでしたが。


 最近の人文系の大学院生たちのなかに、かつてほど左翼思想にシンパシーを抱く人が少なくなった背景には、自分の目の前にいる(左翼系の)指導教官たちが、まともな仕事をしていないうえに、院生の将来のために具体的に何かやってやろうという意識がないことに対する不満があるのではないかと思います。
 これはあまり根拠のない推測ですが、赤木くんがジャーナリスト志望の人だとすれば、彼もまた、みずからが既得権益層になっていることに無自覚な左翼系のジャーナリストや知識人、そして評論家のぬるい態度に怒りを感じるのは、当然のことではないかと思います――私もおそらく、そうした既得権益者のひとりなのでしょう。
 彼個人、あるいは彼に近い人たちから見て、「平和を語る左翼知識人たち」こそが、既得権益層の中核にいるということであるとすれば、「戦争が希望」という逆説的表現はそれほど不思議ではありません。


 しかし、その感覚は、彼と同じようなタイプのフリーターでないとわかりにくいのではないかと思います。左翼知識人が「目の前にいる既得権益層」に見えるかどうかは、その人のライフスタイルや、目指しているものによってかなり左右されるので、一般化しにくいと思います。
 また、「丸山眞男をひっぱたきたい」で展開したような議論を左翼知識人を相手に展開し続けても、(言論的なインパクトは別にして)現実政治のレベルで得られるものはたいしてないでしょう。赤木くんが現実政治レベルでの成果をあげたいと思っているかどうかはわかりませんが。


 念のためにいっておくと、私(仲正)が左翼知識人を批判することが多いのは、私と比較的近いところにある思想系のメディア・論壇では、依然として、左翼系のあまり知的に洗練にされていない安直な言説が惰性的に流通しているからです。
 あくまでも私の目につくところに愚かしいものが幅を利かしていて、自由に物を言いにくいから批判しているだけであって、サヨクが言論界からいなくなれば日本がハッピーになるとか、サヨクを更正させて「真の左翼」にしてやりたいというような身のほどしらずの願望を抱いているわけではありません。
 大学などでの教育改革問題や、先端医療の現場におけるインフォームド・コンセント問題についても、私なりに言いたいことはありますが、そうした問題については、サヨクの負の貢献度はそれほど高くないと思っています。問題ごとの批判対象の仕分けが必要です。そういう前提で考えると、赤木くんの「丸山的なもの」にターゲットを絞った発言の是非を、「労働問題一般」にいきなり拡大して論じるのは少し無理があるでしょう。


 赤木くんの問題提起にポジティヴに答えるためには、右派左派にかかわりなく、労働政策や職業教育政策における公正さを求める議論をするしかないと思います。ポイントは、既得権益層が得ている”不当な利益”を吐き出させるための、恣意的ではない基準だと私は考えています。
 自分と異なる意見を持つ人間のイデオロギー的背景を勘ぐって、「あいつは○○主義者だから、あいつの一見まともらしい主張の裏には……」式の“ラディカルな批判”は、何も生み出しません。