赤木言及リンク集

赤木智弘さんに関して書かれているエントリを揃えてみました。

(当方でサマリ化していますので、言及する際は原文をご確認下さい。)



要するに平和とは、既得権を守ることなのだ。椅子取りゲームで、あるとき笛が鳴ってみんなが椅子に座った瞬間、座った人々は二度とゲームをしなくなる。それを平和という名で正当化するのだ。民主主義や資本主義も、建て前としての平等(機会均等)は掲げるが、実際には資本をもたない者にとっては機会は決定的に不均等なのだから、この状況を壊すには椅子をひっくり返すしかない。


二・二六事件青年将校の思いと赤木氏の思いが妙に重なるのだ。池田氏も「丸山の同時代の若者があの戦争に突っ込んでいったのも、必ずしも召集されていやいや行ったわけではなく、農村の貧しい少年が戦争で手柄を立てて「一発当てたい」という衝動からだった」と書かれているように二・二六事件が起きた1930年代は農村が疲弊した時代で、現代の格差社会問題に重なる。青年将校の思いを語ったものとして、二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一の遺稿について、三島は「そのとき単なる希望も一つの行為となり、ついには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。磯部の遺稿は、絶望を経過しない革命の末路にふさわしく、最後まで希望に溢れて、首尾一貫している」(「道義的革命」の論理)と書いている。彼らは「希望」と「絶望」が同義である地点にいた、と三島は解釈している。「豊饒の海」の第一巻「春の雪」も、恋愛小説の形をとりながら、二・二六事件を下敷きにしており、「希望」と「絶望」が同じになる地点で死ぬ。第二巻「奔馬」の主人公は財界首魁を刺殺するテロリスト、第三巻以降の「暁の寺」「天人五衰」は語り部自身が主人公となり、最後にはやはり「希望」と「絶望」が同義である地点、

この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。

……という末尾の有名な章句まで行き着く。三島自身は、農村の青年とは縁もゆかりもない生活をしていて、時代から孤立した文筆活動をしていたが、空襲に「世界崩壊」を夢見ていたことにおいて通底していたと思われる。人間の思考とはまことに玄妙なもので、「絶望」が深いほど高揚を求めるものだ。その絶望度の度合いは1930年代と現代とでは徐々に近付いているのではないか。赤木氏と青年将校と同列に並べるなど奇異であることは百も承知だが、それでもなおかなりの度合いで共通性を認めないわけにはいかない。人間は希望を持つから絶望するのであって、希望が絶たれるとその絶望は一挙に希望と融合し、核融合反応のように猛烈なエネルギーの発散を求めるのではないか。赤木氏の希望が単なる英霊として死んだ方がまし、のレベルを超えて「日本崩壊」の次元まで希望と絶望が融合する次元までモーメントを増しているのは間違いないだろう。


■「希望は、戦争」と「気分はもう戦争」は似ている
無理矢理だけど、赤木智弘矢作俊彦も似ている。


もう一つ思い出したことがある。大友克洋が漫画で『気分はもう戦争』と言ったり、ガンダムなどが出てきた頃、吉本隆明がそれらを擁護して、「気分はもう戦争、と言ってしまうと本気で戦争はできなくなってしまうんだ」という主旨のことを言っていたこと。それと赤木問題を比較するとどうなるか。赤木は表現なり虚構という枠組みで戦争を語ったのではなく、評論文として、推奨されるべき政策の一つとして戦争を語っている。赤木が「希望は、戦争。」と語ったら本気で戦争はできなくなってしまう、とは言えない、どころか日本を戦争ができる国=普通の国にしたい右派政治家の言説とシンクロしてしまう。だから私は赤木智弘の言説に反対である。


僕は武田徹さん経由で彼を知り、HPを見たり『論座』もリアルタイムで読んでいたので、何だか知り合いが出すような気がして嬉しかったり。終戦記念日東京新聞が社説で言及するなど、その反響の大きさ(是非両方で)はかなりのものだった。たまたま就職氷河期に産まれただけで社会進出の機会が失われ、平和という名のもとに流動性も無く自分達が救われないままなのであれば、戦争を望むという寄稿は、共感する人もギクッとする人も多かったのか、大きなインパクトを持って受け入れられた。詳しくは彼のサイトを読んでください。読まずに痛いというには早すぎる。
丸山眞男をひっぱたきたい」というタイトルも、「希望は、戦争。」というコピーもショッキングで戦略的にも成功した言葉選びだったと思うが、その反論は「戦争」という言葉を額面通りに受け取った的外れなもの(福島みずほとか。鳥肌実にレイプされればいいのに、なんつって)が多く、旧来のサヨク的なお説教以上のものになっていなかった。そのお説教、正論すぎる正論が何の意味も持たないどころか、それが平和という名の元に安住する勝ち組サヨクを象徴しているように思えた。赤木さんがぶち壊したいのはその構造そのものであり、戦争というのはメタファーに過ぎない。わざとなのか知らないが、論点がズレてすりかえられてなかなか届いてない気がしたのが残念だ。


「「丸山眞男」をひっぱたきたい:31歳フリーター。希望は、戦争。」 この一文を読んだあと、自分の認識が甘かったことに気付いた。若者=不幸な世代のキーワードに「年金崩壊」を入れていたのだが、それは将来のことと考えていた。しかし彼のように正社員になれなかった者は当然ながら、「厚生年金」とは無縁だ。国民年金だけで老後の生活が賄えるはずがない。非正規社員の年金はすでに崩壊している。もっと酷いのは、彼等の尊厳が崩壊しており、潰されて続けていることである。人間は誰しもプライドがある。尊厳が踏みにじられている(と感じる)状態が長く続くことは耐えがたい苦痛だ。彼等に対し、「自己責任」や「努力不足」などの安易な言葉を投げるのは筋違いだ。彼等にはそもそも、機会(正社員になる機会)が与えられていない。それは本人の努力とは無縁の、本人にとっては不合理な、受け容れるのが極めて苦しい現実なのである。そして漠然と考えていた「バブル崩壊(不況)」→「非正規社員の増大」→「社会不安」→「戦争への期待(状況の劇的な変革への期待)」という道筋が、この一文にははっきりと見えている。昭和初期の大不況の中、就職できない若者が続出した。社会不安が生じた。農村部は貧困に喘いだ。それをいくばくかでも救ったのが、中国への侵略戦争満州国だった。


「希望は、戦争」という極論の選択は、しかし赤木氏にとって、取替えのきかないものなのかもしれない。例えば、「希望は、地球滅亡」でもカタストロフィーは得られるが、これでは誰も相手してくれまい。ノストラダムスでも読んどけ、で終わりだろう。一方、「希望は、大震災」だったならどうか。例えば首都圏に大規模な震災が起これば、戦争におとらぬカタストロフィと流動性がおこるだろう。しかし大震災の記憶は私たちにあまりに生々しい。これでは別の意味で誰も相手にしたくない。つまり「戦争」というのは、カタストロフィとして、地球滅亡ほどの空論ではなく、大震災ほど生々しくはない、そのあたりから選ばれているのではないか。赤木氏の「戦争」は、結局のところ誰と何のために戦うのやらわからないエヴァンゲリオン的なものであることは上に述べたが、エヴァがある意味ではリアルであるように、赤木氏の「戦争」も抽象的であるがゆえに一定の求心力を持った面はあるだろう。ところで、アニメ版『時をかける少女』を見て、自分もあんな青春を送りたかったという疎外感を訴える話があったけど、赤木氏は新しい『ヱヴァ』をみて、自分もあんな戦争の中に生きたかった、と思うのだろうか?赤木氏による『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』評を読んでみたい気がする。


ボートがあって、「持てる者」がボートに乗っているとする。持てない者たちは、ボートに乗りたいが乗れない時、どうせ助からないならオマエらのボートの底に穴を開けてやるぜ、それでもいいのか、と言っているのと同じようなものである。ボートに乗っている人たちは、乗っていない人たちを何とか助けようと努力することはあると思う。それは船底に穴を開けてやるぜ、という脅しとは無関係にあるべきものである。助けを請う側が、助けないなら穴を開けてやる、という恨みをぶつけることは禁忌だということ。ボートに乗っている人たちは乗れない人たちを目の当たりにするので、苦悩を強いられているのである。そこに向かって、助けろという取引を強要するのは本来的にオカシイのである。募金しないと暴れてやるぜ、嫌なら募金しろ、と言うことが良い方法であるとは思えないのである。募金を受ける側が、金をくれないのはおかしい、などと言うことも有り得ないのである。


要するに流動性が(持てる者に対して累進的に)増すから戦争ビバ、と。しかし、一歩進めて考えてみれば、戦争のがらがらぽんぶりっていうのはより大きくて、「失う」だけじゃなくて「得る」場合も同じなんだよね。戦争で得られるものというのは「敵の命」だけで*1、それは貯めておくこともできないし、多く得たからってそれで弾が避けてくれるわけでも、弾に当たって死ににくくなるとかいうこともない*2。身分階層所得の貴賎高低貧富と関係なく、その日の戦闘ごとに「生き残れたか」という点においては常に横一線の評価がなされるし、戦功も貧富とか身分とかが(あまり)関係ない。つまり弱者にとって、みんなが弱者になるだけでなく、自分が新規まき直し再評価されうるものすごい機会なのである。悲惨な戦争に最後の希望を見出すのであれば、この「再評価」という部分を忘れてはならない。


赤木智弘がダメなところ 赤木智弘の場合、「自分が報われないから日本社会に災い(戦争)あれ」と言っているわけです。赤木の仮想敵は日本社会そのものであるわけです。 そして、赤木智弘がダメなところは、自分がダメな状況だから他の連中もダメになれ、と主張している点です。そもそも、広い意味では労働市場で競合する他者に対して「おれは貧乏で救われないので、お前らも貧乏しろ」とは片腹痛すぎです。 皆が良くなれば、俺も良くなるという、というのが古来からの「哲学」でした。 志ざしを失った悲惨な状況を敢えて文章化すると、「戦争は希望」ということになるのだと思います。 一言で言えば、赤木智弘というのは病める現代日本社会の象徴と言えるでしょう。また、「戦争が希望」と戦争を煽動するが如き言動をする人間の本を出版する双風舎は指弾されてしかるべきでしょう。少なくとも私は双風舎に対して反社会行為を謹むように指摘はします。赤木の本を双風舎が出版するのであれば、双風舎は出版社として求心力を失い、そう遠くない将来経済的に行き詰まるでしょう。


 “格差社会”と呼ばれるものの何が問題なのか。それは“格差”そのものが問題ではないはず。年収1000万と500万の格差など、ガチガチの共産主義者でもないかぎり問題とはしないはず。年収500万と100万の格差は問題だけれども、格差があること自体はやはり問題ではないはず。それは年収100万という自立して食っていくにはとても苦しく、なおかつその状況に対する保障がほとんどないことこそが問題であるはず。問題は“格差”ではなく“貧困”ということ。 そこに“流動性”が何の意味を持つのでしょうか。貧困層に追いやられる人間が入れ替わるだけであり、やはり一定の貧困層は存在しつづけることになります。それでは何の解決にもなりません。 必要なのは最下層でも“希望をもてる生き方”ができる社会保障。その社会保障に必要なコストは富裕層から持ってくることになるので結局“格差”も問題になるわけですが、ともかく“流動性”はそれが確保できた後に求めるべきものではないでしょうか。


アメリカの福音派メガ・チャーチ(大教会)の伝道師は、まるで、ビジネスマンのようであり、スタイルも現代化して、信者数を伸ばしている。現代人にマッチするように変化して時代に適応しようとしているのである。しかし、それも一時的なごまかしにすぎない。現代の宗教は、非宗教化することで生きのびようとしているのである。この場合は、宗教をビジネス化しているのである。 それに対して、哲学は、公然と様々な現実知識を取り入れながら、変化・発展していくことが可能であるし、現にそうしてきたのである。知性と社交を結ぶということなら、赤木智弘君のような人とも知的社交を結ぶことで、彼の悩みを癒すこともできるだろう。もっとも、それには、フッサールの認識論(意識の学)よりも、感覚・感情・感性・意志・意欲の学や社会や経済やその他の方が、必要だろう。


丸山真男をひっぱたく赤木智弘が例の檄文(通称「赤木論文」)を単行本として出すらしい。ちなみに件の論文の丸山真男は「戦後民主主義のチャンピオン」(小熊英二丸山真男の神話と実像」『丸山眞男』(河出書房新社))としての丸山ではなく、学士助手でありながら軍隊で一兵卒として扱われ無学な上官からひどい扱いを受けた丸山を意味し、赤木は既存の格差の流動化、端的に言えばギャンブル的な状況決定をもたらすものとしての戦争を望んでいる。
論座誌上ではこれに対していわゆる左翼側からの反論が載せられたが、誰も論旨を読み取らずに、(あるいは読み取る事を拒否して)今までどおりに自分の主張を一方的に語るだけだったのが笑えた。ただ鶴見俊輔だけはひどく同情的な反応と理解を示していたが、それは彼一流の処世術のような気がして薄気味が悪かった。


なかなか面白い読み物でした。こういう人こそ海外へ飛び立って欲しいのですが、というか、エッセイの後半部分の赤木さんが自分の考えを吐露している部分は置いといて、もし今、この作者のような「就職氷河期世代」の「ワーキング・プア」で、自分の未来にまったく希望が持てない人がいるとするなら、そういう人こそ海外へ出るべきなんじゃないか、と思いました。例えばフィリピンとかインドネシアのように、それなりに日本から近く物価も安い東南アジアの国など。


キャンペーンブログがt-akagiで開設された。
さて、ここでのコメント欄で、戦争は悪か否かということで議論となっているわけであるが、エントリや氏の論文の内容からずれ込んでいるようなので、ダイアリーで議論を深めてみようかと思う。
さて、私は主にfemmelets氏とここで議論をしているわけだが、femmelets氏は「戦争が倫理的に悪であり、否定すべきである」と言うのに対して、私は「戦争は本当に悪なのか?」という疑念を挟んでいる。確かに、多くの人が想像するように、戦争は大量の殺人が伴い、多くの破壊が伴うものである。その事実を私は否定しないし、それは一般的に悪であると言われるということも否定はしない。しかしながら、それでも戦争を行おうという人間は自らの行為を正義と信じて行うものであるということも事実である。人は何かしらの正義や何かしらの利益を実現するために、時に闘うことがある。また、これを拒否するために闘うことがある。それに暴力が使われることもあるだろうし、また使われないこともあるだろう。私は戦争が悪であるとただ断罪するというのは、正義のために、何らかの利害のために、様々な理由で闘う人々にとってまったく説得力が無いだろうということを考えるのである。


「希望は戦争」論文で話題の赤木智弘さんの本が出版されるようで、キャンペーンブログをスタートさせたそうです。多彩なブロガーの方々による、これから頻繁に更新されるであろうエントリーに期待しています。


人は一度既得権益を手に入れたらそれを簡単に他人に譲り渡そうとは考えない。このような社会構造は例えば「戦争」のような、何かとてつもないことが起こらない限り変化することはない。


 就職氷河期世代のルサンチマンの塊、赤木智弘が本を出すそうである。まあ、既成左翼、講壇左翼に対する怒りは共有するが、左翼叩きも2ちゃんねるなどで食傷ぎみである。しかし、赤木の乾坤一擲の恫喝にはインパクトがあったからなあ。面白いものを期待したい。


日本社会の今の閉塞感は異常だ。われわれの手で、社会に余裕というか隙間というか、息をつける場所を育んでいく必要があるのではないだろうか。


“「赤木本」キャンペーンサイト、はじまりです。”とのこと。今後の展開に注目。


論壇を賑わした赤木智弘の論文『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』から派生したブログ。「希望は、戦争」という言葉をどう捉えるか。興味深いです。


運営スタッフの鮭缶さんのプロフィール

>鮭缶です。属性は童貞&ハガキ職人&歴史研究者(某私大大学院生)。一応、主に今回は歴史研究者として応答する予定。

一瞬、「趣味は童貞」と読んでしまった・・・。「属性」と「趣味」。まったく似ていないんだけどなぁ・・・なんで「趣味は童貞」って読んだかなぁ、自分でも不思議・・・。

膨大な量のため当blog開設以降のエントリに限定しています。